榮凛学園ミステリ研究ファイル外伝・壱
著者 朝霧 夏樹
 
 
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 最後の一段を駆け上がり、ぱっと着地のポーズ。
 うん、決まった。
 ぴんと、指の先までしっかり伸びていることを確認して、少女は満足げに頷いた。
 軽やかな栗色のショートヘアに、愛嬌たっぷりのつぶらな瞳。化粧気のない肌はこんがり小麦色。まるで太陽光発電をしているといわんばかりに快活とした少女の姿は、見るものを元気にするように輝いていた。
 前田絵馬、十六歳。私立榮凛学園高等学校女子陸上部若手のホープは、その肩書きに見合わず小柄な少女だった。
「――って、こんなことしてる場合じゃないっつーの」
 てへっ、と小さく舌を出し、絵馬は額を叩く。
 着替えやら何やらを突っ込んだスポーツバッグを担ぎ直して歩き始めた。
 下校時刻を間近にひかえた校内には、もう生徒の姿は見られない。日も傾き、廊下はすでに薄闇に包まれつつある。
 まるで、暗がりから静謐が滲み出し、音を食らっているかのように、辺りは静まり返っていた。先ほどまで活発な声を上げていた運動部の気配も、今は感じることは出来ない。
 絵馬は、校舎全体がセピア色くすみ、暮れなずむこの時間の学校が苦手だった。
 暖かかった壁が掌を返したようにそっけなく感じられ、優しく受け止めてくれた床が、まるで石畳の上を歩いているかのように硬くなる。どこか見知らぬ路地に迷い込んでしまったときのような、寂寞とした疎外感を、絵馬は感じていた。
 早くこの静寂から抜け出してしまいたい。
 知らず知らずのうちに早くなった歩みは、やがて走り出さんばかりの勢いへと変わる。
 気付いたときにはもう、歩調を緩めるのも馬鹿らしくなっていて、絵馬は駆けるようにして、目的の教室を目指した。
 図書室と書かれた部屋の前で、絵馬は足を止めた。こほんと咳を一つ。息を整える。
 胸が弾んでいるのは、部活の疲れでも、走ってきたためでもない。もちろん、風邪を引いているからなんてこともない。純粋に、今、このときを楽しみにしていたからだ。
 コンパクトを取り出して、手櫛で髪を整える。汗を吸い込んだ髪はあらぬほうに自己主張しているが、それももう絵馬のトレードマークの一つになっていた。
 恥ずかしくない程度に髪を撫で付け、ぱんと小気味よい音を立ててコンパクトを畳んだ。
 おっしゃー。
 愛くるしい顔には不釣合いな雄々しい気合を入れて、絵馬は図書室の扉に手をかけた。
「ちーっす。榮凛学園女子陸上部のアイドル、絵馬っちただいまとう――ってありゃ?」
 快活とした声は半ばで千切れ、頓狂声へと変わる。
 敬礼の姿勢のまま、絵馬は途方に暮れた。
 いつも放課後図書室でだべっている、ミステリ研究会メンバの姿が見られなかったからだ。
「むぅ……帰るなら帰るって言ってくれても良いのに」
 腰に手を当て、絵馬は頬を膨らませた。
 陸上部との掛け持ちのためほとんど部活に参加できないとはいえ、自分もミス研メンバの一人なのだ。待っていてくれとは言わないが、せめて連絡の一つでもくれて良さそうな気がした。
「まっ、仕方ないよね」
 軽く肩を竦め、特に気落ちした様子もなく、絵馬は誰もいない図書室に足を踏み入れた。
 室内は思いのほか明るい。照明こそ灯っていないものの、前方に面した一面ガラス張りの窓から、刺激的な紅色の光が差し込み、じりじりと焼くように、部屋全体を照らしていた。
 天井に届かんばかりの書架には、隙間なくびしりと本が詰まっている。
 医学、科学、情報、宗教や風俗に始まり、一般文芸から文庫本。果てはマンガまで、実に様々な書籍が整然と並ぶ。
 誰もいない図書室は、いつもとは少し違って見えた。
 まるで本たちが自分に読まれることを心待ちにしているかのように、息をひそめ、こちらの様子をうかがっている。そんな心地の良い緊張感があった。
 それは、図書室の本がすべて自分のために用意されているような高揚と、多くの書物に囲まれ、まるで茫洋とした海原に投げ出された子犬のような心細さを、絵馬にもたらした。
 浮足立った自分を落ち着けるため、絵馬は一冊一冊を確かめるように、タイトルをついばみ、背表紙を指でなめていく。
 今まではスポーツ医学関係の本にしか興味のなかった絵馬だが、ミス研に加入してからは、本格推理をはじめとして様々な本に目を通すようになった。
 読書経験が一年足らずの絵馬にとって、図書室は未踏の地である。しかし、だからこそ手に取る本は皆新鮮で、新種の生物を発見した学者のような喜びを感じることが出来た。
「うん、今日はこれにしよっと」
 迷った末に、一冊の本を手に取り、絵馬は出口へと向かう。
 そのとき、秋特有の無表情で乾いた風が、絵馬の髪をさらっていった。
 反射的に振り返る。視界の端で、純白のカーテンが静かに風に泳いでいるのが見えた。
 絵馬は訝しげに眉根を寄せる。図書室に入ったとき、確か窓は閉められていたはずだ。
 誰かまだ残っていたのだろうか。
 幾つか、知った顔が浮かんでは消えていく。
 図書室の常連は一癖も二癖もある奴ばかりだ。何かしらの悪戯を仕掛けられても不思議ではない。現に絵馬は何度か被害にあっている。
 こないだなんかは、図書室に入った途端に腰を抜かしてしまった。なぜか図書室にいた全員が、逆立ちやブリッジをして本を読んでいたのだ。
 いったい何事だろうか。その光景に圧倒されながらも、近くにいた女子生徒――確か夢水雷歌といったか――に尋ねると、雷歌は器用に口でページをめくりながら、当然のように言ってのけたのだった。
『この方が頭に血が集まって理解力が増すんだよ』
 と。
 確かにそうだ。筋肉も血液を多量に含んだバンプアップ状態では太く引き締まる。筋肉はよくて脳にはダメなんてことがあるはずがない。脳にも血液が集まればきっと活性化されるはずだ。
 さっそく、帰って居間で実践していると、その姿を見た風呂上りの妹に爆笑されてしまった。
 思い出すと今でも顔が熱くなる。あんな辱めを受けたのは初めてだった。
 もうだまされるものか。何があっても驚いたりなんかしない。
 絵馬は油断なくあたりを見回した。
 風にカーテンが揺らめき、攪拌された光が奔放自在に踊り狂う。その光を餌食にしようと、影がにじり寄る。
 ほかに、動く者の姿はどこにもない。
 気のせいだったのかな?
 自分が疑心暗鬼に陥っていることに気づいて、絵馬は肩をすくめた。
 ため息をつき、窓に歩み寄る。用務員か誰かが見回りに来るとは思ったが、さすがに無視して出ていくのは気が引けた。
「まったくもう……、開けたら閉めることくらいしろっつーの」
 ぶちぶちと文句を垂れながら、窓を閉めようと手を伸ばす。と、絵馬の手より一瞬早く、彼女の肩越しに伸びた手が、窓の縁をつかんで音もなく窓を閉めた。
「――えっ?」
 不意のことに、絵馬は言葉を失う。
 しかし、すぐにその顔は屈辱に歪んだ。
 うかつだった。やはり何者かが潜んでいたのだ。
 とっさに振り返ろうとする絵馬を、背後に控えた何者かが抱えあげた。
「うひゃぁっ」
 一五〇センチ足らずの矮躯はあっという間に離陸を果たし、彼女は体の自由を奪われた。
 絵馬はこうなると弱い。片手間で出場した七種競技で高校総体六位入賞を果たすなど、非凡な身体能力を見せる絵馬だが、それも地に足が付いていればの話だ。ひとたび足場を失ってしまえば、陸に上がった河童のようにただの無能になり下がる。
 しかし、だからといって抵抗しないわけにはいかない。それとこれとは別問題なのだ。振りほどけないまでも、拒絶の意を示すことは必要だった。これで体を許したなんて誤解をされたらたまったものではない。特にこの男には。
 絵馬には、自分を抱き上げる人間に心当たりがあった。というか、こんなことが出来るデリカシーのない人間を、彼女は一人しか知らない。
 この手の男に弱みを見せたら負けだ。
 つんと唇を突き出し、絵馬は不満げな表情を作る。抵抗を諦め、自分を抱えあげる自分物を振り仰ぐ。そんな仕草が、相手の嗜虐心を掻き立てていると知るには、絵馬はまだ幼かった。
「もうっ、いい加減にしないと後でヒドイ――」
 絵馬の声は半ばで潰えた。
 見知らぬ顔が、そこにあった。
 いや、果たしてそれは顔といって良いのだろうか。
 まるで、エナメルのようなすべやかで無機的な肌。しかし、それが覆うのは顔の左半分のみである。残す右半分は、皮を剥がれたように表情筋がむき出しにされていた。小さく開いた口元には、真っ白の歯が整然と並んでいる。
 それは、生物教室の隅で埃にまみれ、一人たたずんでいる人体模型そのものだった。
 無表情な、あまりにも冷たいガラスの瞳の奥に、絵馬は狂気を見た。
 暑くもないのにどっと汗が噴出す。下腹部に沸き起こった恐怖が、背筋を駆け上がり、脳天から突き抜ける。
 刹那、裂帛とした絵馬の悲鳴が、夕暮れの校舎に響き渡った。
 しかし、その声を聞き届けるものはもう、どこにも残されていなかった。
 
 
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 ぱんっ、と小気味のよい音を立て、真夜美は『人体模型殺人事件』と題された原稿を叩いた。
「却下します」
 不機嫌を隠そうともしない真夜美の声に、やはり同じように原稿に目を落としていた生徒数人が顔をあげる。そして、モナド論に基づき、一拍の間もなく同時にため息をついた。
 放課後の保健室で、四人の生徒と一人の教師が顔を突き合わせていた。
 宮前真夜美を長とする、彼女のクラスメイトの満谷達巳と木津川香月。そして後輩でもあり、たった今作中で惨殺された前田絵馬の、ミステリ研究会メンバと、その顧問を務める現国の教師、琴織音子の五人だ。
 見事に唱和したため息の三重奏には目もくれず、真夜美は対面に座った女教師をじっと睨み据える。
 つい先日、二六歳の誕生日を迎えた現国の教師は、実年齢の割に若く――いや、幼く見えた。
 一五四センチ、四一キロと、女性としても小ぶりな体躯。ふとしたら、少年と見間違えてしまいそうなほど、凹凸に乏しいその矮躯を、いい大人なら決して着られないような、極彩色の服で飾っている。生まれたての赤子のように柔らかそうな髪の大半は、ニット帽の奥。わずかに覗いて見える天然の茶髪は、実に軽やかだ。
 顔立ちは柔らかく、造作の細かな種々のパーツが、座布団の上にちょこんと座った童子のように、行儀よく並んでいる。
 ファッションセンスに疑問を感じなくもないが、間違いなく、美人のカテゴリに含まれる素養を要した女性だった。
「あのね、まやちゃん。冒頭を読んだだけで結論を出すのは時期尚早なんじゃないかなって、先生は思うんだけどな」
 原稿の著者――音子は真夜美の険悪な視線に気がついていないのか、小首を傾げ、小さく微笑んだ。
 成熟した女性が魅せる、嬌笑ではない。かといって、幼子が浮かべるような、八面玲朧とした純粋なものでもなかった。
 目をかすかに細め、唇の端をほんの少しだけ持ち上げる。ふとしたら、微笑んだことにさえ気づかないほどの、かすかな変化だった。
 それは笑おうとして失敗したのかもしれない。
 ただ、その危うげな笑みは、艶容と無垢が同居する音子の容貌に、良く馴染んでいた。
 計算されたものではないはずだ。音子がそういった小手先の駆け引きができる人間でないことはよくよく理解していた。だからこそ、たちが悪い。この教師は自分の仕草一つが与える、周りへの影響をまるで自覚していない。
 飾らない性格、裏表がないところが多くの生徒に慕われ、ねこ先生の愛称で親しまれているが、裏を返せばそれは、思慮に浅く、わがままであることに変わりない。
 それを相手に許容させることが、彼女の魅力の本質と言えなくもないが、少なくとも真夜美は範疇の外である。看過できるほどの器量もないし、甘さも持ち合わせていない。
 真夜美は痛痒をこらえるように、ぐっと眉間にしわを寄せ、メガネの位置を直した。ピントの合ったレンズの奥で、相変わらず音子が微笑んでいる。
「何か勘違いしているようですから言いますけど。琴織先生、今年の出し物のメインは密室トリックなんです。こんなサスペンス風味の話、企画の趣旨にそぐいません」
 威圧的な声音で、真夜美は告げた。
 しかし、音子は気圧されるどころか、むしろ勢いを得てうんうんと頷く。
「それは分かっているわ。でもね、ミステリって形に囚われちゃダメだと思うの。密室トリックだなんて枠を自分で決めちゃったら、斬新なアイデアも柔軟な発想も生まれないわ」
「非論理的なことをおっしゃらないでください。会場の関係から密室トリック以外は現実的でないと、そう言いませんでしたか?」
 あくまでも丁寧な口調で、真夜美は応じる。
 しかし、その言葉の節々に織り交ぜられた棘を感じ取ったのか、音子がむっと頬を膨らませた。
「言ったわ。でも、そんなのつまらないじゃない。せっかくみんなでやるんだからさ、もっと学校中を使った大スペクタクルな企画にしたっていいと思うな」
 まるで母親に窘められた小学生のように音子は言う。
 今まで幾多の男たちを懐柔してきたであろうその仕草にも、真夜美は眉一つ動かさない。
「気持ちは分かりますが、現実的ではありません」
 メガネの位置を直しながら、真夜美は噛んで含めるように続ける。
「文化祭までもう二週間を切っているんですよ。配役や打ち合わせ、衣装だったり小道具だったり。リハーサルのことも考えると、実質一週間あるかないかです。大風呂敷を広げてみたところで、立ち行かなくなるのは目に見えています。今さら会場を変えてくれと言うわけにもいきませんし。状況が限定されてしまっている以上、それに即した手段を用いるべきです」
 きわめて論理的な真夜美の意見に、音子は返す言葉がないのか、つんとそっぽを向いた。
「まやちゃんは少し真面目すぎると思うな」
「それは相対的な問題です」
 端的に答える真夜美。暗に音子が不真面目なのだと主張するその真意に、当の本人は気付いていないのか、こちらを向こうとはしない。完全に拗ねに入っている。
 小さな体、幼稚なファッション、幼い顔立ち、拙い表情。どこからどう見ても子供だった。高校生にして、キャリアウーマンのような貫禄を持つ真夜美と比較すると、その幼さはより一層際立つ。もし、事情を知らぬ者が今の二人を見たのならば、それは進路に身の丈に合わない学校を志望する生徒と、それを指導する教師のように映ったかもしれない。
 真夜美はため息をつき、苛立たしげにペンを指に挟みくるくると回す。
 彼女は後悔していた。何かを悔い改める。それは論理的に物事を考察し、石橋を叩いた上で行動に移す真夜美としては、とても珍しいことだった。
 舞い上がっていたのだろう。諦めかけたころに、降って湧いたように持ちあがった文化祭での出店の話。冷静さを失っていたと認めざるを得ない。
 でなければ、いくら本人が強く希望したからといって、音子に脚本を任せるわけがない。
 非論理的である。エラーコードのように、その言葉が真奈美の脳裏で明滅を繰り返す。
「とにかく、このシナリオは却下します。それこそ、お話になりません」
 真夜美は冷徹に告げた。
 さすがにショックを受けたのか、音子はしゅんと肩を落とす。まだ諦めきれないのか、非難めいた視線を向けてくるが、真夜美はそれを黙殺した。
 今は一分一秒とて時間が惜しい。これ以上非生産的なことに時間を浪費するわけにはいかなかった。
 しかし、真夜美の意思に反し、思いもよらぬ方から声が上がった。
「そんな頭ごなしに否定しなくてもいいんじゃねぇの?」
 状況をまるで顧みない、軽佻浮薄とした声に、真夜美のこめかみに隠しくれない青筋が浮かんだ。うんざりするように言う。
「達巳は少し黙っていて。あなたが口をはさむと、状況がややこしくなるの」
 袖にされ、達巳はさも傷ついたとばかりに大仰に肩をすくめた。
 満谷達巳、一七歳。
 散切り頭によれよれの制服。彫りの深い精悍な顔立ち。目元は鋭く威圧的だが、眼光に力はなく、瞳はスモークガラスのように曇り、先を見通すことはできない。
 二枚目と評することもできなくもない程度には、整った顔立ちをしている。ただ、多くの人間は、彼の口元を飾るいやらいい――もといいやしい――笑みに、忌避を感じることだろう。そして、得てしてその予感が裏切られることはなかった。
「いいんじゃね、別に。これ以上ややこしくなりようがないんだしさ。それに俺、この話、結構気に入ってるわけだし」
 実直だとか、慇懃だとか、謹厳だとか、そんな言葉とはまるで無縁の態度で達巳は言う。
「先生、たっちゃんだけは分かってくれるって思っていたわ」
 自作が褒められたことがよほど嬉しかったのか、音子は零れんばかりに笑顔を弾けさせ、達巳の腕にしだれかかった。
 まるでそれを予期していたかのように、達巳は戸惑うどころかむしろ積極的に音子を抱き寄せ、華奢であるが十分に扇情的な腰に、躊躇うことなく手を回す。その手際は、いっそ感嘆するほどに鮮やかで、そして自然だった。
 まったくこの男は何を考えているのだろうか。今さら音子のシナリオに期待したところで、得るものは何もないと言うのに……
 真夜美は達巳の考えを思案し、すぐにそれを打ち消した。考えるだけ無駄である。結局こいつは何も考えていないのだ。
 倦怠感に押しつぶされそうになるのをどうにかこらえ、真夜美は恨めしげに達巳を睨んだ。と――
「あーあ、みっともえねぇの。これだから男っつー奴は信用できないんだよねぇ」
 気だるげで、それでいて剣呑な声が上がった。
 声の主を予想しつつ、真夜美は隣に目を向け、やはりとため息を漏らす。
 それまで机に突っ伏していた絵馬が、上体を起こし、破壊的な視線を達巳に向けていた。
 威圧的に細められた瞼。眼光鋭い大きな瞳をその縁に隠し、険悪な眼差しで達巳を射抜く。
 当然の如く、音子の作品に登場したような、快活とした印象などどこにもない。あるのは不倶戴天の敵を前にした武者のような、獰猛で凄惨な形相のみ。なまじ造作が良いだけに、その表情は凄愴を極めていた。
 しかし、火さえ付きそうな苛烈な視線を前にしても、達巳は表情一つ変えない。相変わらずしまりのない下品な笑みを引き下げ、絵馬を嘲弄する。
「何だ。お前、妬いてんのか?」
 不意の一言に、絵馬は一瞬、言葉に詰まった。しかし、そのことを恥じるように、憤然と肩を怒らせ、叫んだ。
「ば、バカ言え。なんであたしがお前なんかにっ」
 吐き捨てるように絵馬。それに達巳は、にたぁ、と糸を引くような笑みを浮かべ、言葉で愛撫するように問いかけた。
「恥ずかしがらなくてもいいんだぞ? ほら、こっち来い。いい子いい子してやるから」
 妙に官能的な動作で、達巳は絵馬を手招く。が、その手はすぐに音子に拘束された。
「たっちゃん浮気してるぅ」
 音子はいじらしく唇をつんと突き出し、睨め上げるようにして達巳に迫る。腕を達巳の首に、胸を押しつけるように身を密着させ、肩に顎を置いた。
 まるで、キスを迫る恋人のような親密さ。不純故に妖艶なのではなく、純故に背徳的な。
 達巳は音子の頭に手を置き、よしよしと撫で回す。しかし、視線を絵馬から外そうとはしない。警戒しているのではなく、その反応を楽しむように。
「冗談に決まってるだろ? 暴力と体力だけが取り柄の、人の皮ったゴリラのような生き物、こっちから願い下げだってんだ」
 嘲弄混じりの達巳の言葉に、絵馬は椅子を蹴り倒し立ちあがった。顔を怒りに紅潮させ、語気鋭く言い放つ。
「お前ケンカ売ってんのかっ」
 それに達巳は目を瞬かせた。まるで、何かおかしなことを言ったか、と問いかけるような視線を絵馬に向ける。絵馬はそんな視線を真っ向から受けて立つ。
 睨み合う両者。十数秒の沈黙の末、達巳はたった今思い至ったとばかりに、わざとらしく表情を崩した。沈痛な面持ちを装い、重々しく口を開く。
「悪い、絵馬。お前の気持ちは嬉しいが、さすがの俺にも雌ゴリラの相手は務まりかねる」
 さも悔しげな顔をする達巳に、ついに絵馬はブチ切れた。
「誰が雌ゴリラだ、誰がっ。てゆーか、あたしだって、あんたみたいなロリコンヤローお呼びじゃないんだっつーの。熨し付けて返してやるよこのバカクズミ」
 怒りのためか、それとももともと語彙に乏しいのか、出てくる言葉は小学生のような稚拙な悪口ばかり。当然、そんなものでは達巳の余裕を突き崩すどころか、傷一つ付けることはできない。
 達巳は過分に嘲りを込め、芝居がかったしぐさでかぶりを振る。
「いくら男か女かわからないような性格だからつっても、もう少し言葉遣いには気をつけた方がいいぞ。人語を操る。それはお前に残された人としての最後の砦なんだからな」
「あたしを猛獣か何かみたいに言うなっ」
「大して変わらんだろ。そんなガサツな性格じゃあ。わーわーぎゃーぎゃーとでかい口開いて喚いてっと、今に保健所に連れて行かれるぞ? 哀れ、前田絵馬の最後、ってな」
 里親探しのために今のうちから訓練しておいた方がいいんじゃねぇの? と、嘲り笑う達巳の顔に、絵馬の投げた文庫本がめり込んだ。
「へっへーん。ストライクー」
 どうだまいったか、と言わんばかりに胸を張る絵馬。
 達巳はゆっくりと、顔面に張り付いた文庫本を引き剥がす。露になったその表情からは、今までの余裕が消え失せ、悪鬼の如くの形相で絵馬を睨みつける。
「――っの野郎。どうやら本格的に矯正が必要みたいだな、おい」
 一八〇センチに迫ろうかという長躯が、ゆらりと立ち上がる。絵馬との身長差は約三〇センチ。痩躯の達巳とはいえ、体重では優に二〇キロの差があった。
 まるで、巨象を前にした蟻のよう。しかし、絵馬の表情に気負いは見られない。むしろ、記録を目前としたハイジャンパーのように、喜々とさえしている。
 ネコ科の獣を思わせる絵馬の瞳と、深い沼のようにどんよりと淀んだ達巳の瞳が、互いを睨み合い火花を散らす。一触即発。張りつめた空気が辺りの音を吸収して、その濃度を増していくかのようだ。
 そんな二人に挟まれるようにして座り、真夜美は顔をひきつらせていた。眉がかなり危険な角度を示している。際限なく高まる不快指数は、すでに限界域へとさしかかっていた。
 早鐘のように、警告音が鳴り響く。赤色灯が明滅を繰り返し、まるでウイルスに感染したかのように、脳裏に次々とウインドウが開かれた。表示されるのは、非論理的であるとのメッセージのみ。処理限界をはるかに超えた情報が流れ込み、オーバーフローしたそれがリソースを食いつぶしていく。次々とフリーズするシステムの中にあって、CPUともいうべき真夜美の脳だけは、加速度的な過熱を続けていた。
 非論理的だ。まったくもって非論理的だ。互いに挑発しあって、相手の反応を見て、探り合って、はぐらかして。言いたいことがあるならはっきりと言えばいいのに。無為で、無駄で、そして恐ろしく不毛だ。
 臨界に達しようとした苛立ちを、真夜美はすんでのところで抑え込む。無様に激発したところで何も得ることはできない。蜘蛛の糸ほどに細くなった堪忍袋の緒をいたわりながら、メンバ最後の一人、木津川香月に助勢を求めようと目を向ける。
 香月は、椅子に深く身を預け、文庫本に視線を落していた。
 無造作に伸ばされた、黒髪の長髪。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。一瞥しただけでは、男とも女ともつかない中世的な顔立をしている。
 服装はいたってシンプルで、黒いズボンに白を基調としたTシャツ。羽織っているジャケットも黒い。しかし、地味ではなかった。一つ一つのセンスがよく、胸元や手首を飾るクロームのアクセサリも、とても洗練されている。
 飛び交う罵声もどこ吹く風。凛と澄ましたその意匠は、どこか気品さえ感じさせた。
 真夜美の視線に気づいてか、香月の琥珀色の瞳がこちらを向いた。
 よくよく見れば耳にイヤホンをしている。対峙する二人を見て目を瞬かせるあたり、まさか、この騒ぎに気づいていなかったのだろうか。
 ありえない――とはとても言えない。
 木津川香月とはそういう男だ。どこまでもマイペース。超然と、凛然と、悠然と。こうして会議に顔を見せるこの方が不思議な、究極の個人主義者。可能性としては十分に考えられた。
 ただ、認めたくはないが、香月はミス研一のキレ者である。状況さえ把握すれば、すぐにこちらの真意に気づき、喧嘩の仲裁を図るはずだった。
 何やかやいったところで、真夜美はメンバの中で一番、香月のことを信頼しているのだ。
 予想通り、真夜美の期待に応え、香月は大儀そうに席を立ち、依然として睨み合う二人の間に立ちはだかる。絵馬と達巳がわずかに香月に注意を払った瞬間、香月は手を胸の高さまで上げて、素早く交差させた。
「ファイトッ」
 香月の声が二人の均衡を崩した。後の先を取ろうとしていた絵馬と達巳が、相手の色を見て飛び出す。それを満足げに眺め、香月は何事もなかったかのように席に戻る。
 ぷつり、と何かが切れるような音がした。真夜美が音の正体に気づいた時には、すでに堰を切って溢れ出した感情が、のど元まで駆け上がっていた。
 抗うこともできず、真夜美は感情の丈を声に乗せる。
「どうせそんな事だろうと思ったわよこの馬鹿っ」
 罵声とともに飛び出した原稿用紙の束――しっかりと丸められている――が、香月の側頭部を貫いた。香月は派手な音を立て椅子から転げ落ちる。
 突然の怒声に、絵馬と達巳も動きを止めていた。唖然とした表情でこちらを見る二人を、真夜美は氷点下の目で見据える。見る者が見れば、彼女の背後から立ち上る、怒りのオーラを視認できたかもしれない。
「分かってる? 実質これが最後のチャンスなの。今さら言うまでもないことだけど、文化祭の集客数、売り上げはそのまま部の認証の判断材料となるの。集客数を伸ばすことができれば、来年には正式な部に昇格して、部室だってもらえる。でも、失敗したら同好会のまま。この先もずーっとずーっと、路上生活者みたいな生活が続いていくのよ」
 そんなの耐えられる? そう問いかける真夜美に、達巳は興ざめとばかりに肩をすくめた。
「んなこと言われなくっても分かってんだよ。でも、状況変わっちまったじゃねぇか。お前こそ、その辺のこと、分かってねぇんじゃねーの?」
 分かってない――それは達巳の方だと、真夜美は思った。
 何も変わってなんかいないのだ。成果を上げれば結果が付いてくる。それは当り前の真理のようにそこに横たわっているのだから。
 無論、達巳の――いや、メンバの気持ちも分からくもない。状況から考えて、ミス研単独で出店できるわけではないのだ。他の同好会との共同開催。その模擬店の趣旨を思えば、恥辱に堪えないのは分かる。
 ただ、それでも真夜美は信じていた。辛酸を舐めてでも、信念を曲げてでも、高尚な目的のために愚劣を極めることも厭わず。共に邁進してくれる友であり、同士であると。
 根拠なんて何もなかった。でも、それが当り前だと思い、疑うことさえしなかった。
 非論理的である。今この場で立ち返ってみると、その浅薄さに眩暈さえ覚える。しかし、自分はそれを許容した。確約のない信頼を、心地よいとさえ感じた。
 しかし、顔を上げれば、目の前にあるのはやりきれないというメンバの顔。
 真夜美は、小さくかぶりを振った。
「もういい。分かった。あなたたちにやる気がないことはよく分かったわ」
 投げやりに言って、筆記用具を鞄に詰め込み立ち上がる。
「まやちゃんどこ行くの?」
 さすがに反省したのか、愁容を浮かべ、音子が訊いてきた。
「帰ります。これ以上非生産的な話をしても仕方ありませんから」
 端的に答え、真夜美は歩き出す。足取りは思いの他軽かった。
「おい、真夜美。ちょっと待てって」
 呼び止める達巳の声。しかし、真夜美は取り合わない。
 そう、最初からこうすればよかったのだ。自分以外の誰かを頼ったのが間違いだった。
 真夜美はぐっと拳を握る。うん、大丈夫。まだ間に合う。
 決然とした意を湛え、より強く一歩を踏み出す――刹那。ガツンと何かが額を直撃した。
「――っ〜〜〜〜〜」
 声もなく、真夜美はその場に蹲る。激痛に目尻に涙を滲ませ、憎らしげに自分にぶつかってきた物体を睨んだ。そこには、白色の壁が厳然と立ちはだかっていた。
「何でこんなところに壁があるのよ……」
 呻くように真夜美は言う。
「そりゃ、お前が迷わず突っ込んで行くからだろ。悪い癖だぞ? 考え事をするとすぐ周りが見えなくなりやがって」
 呆れたように達巳。その声音には、嘲笑よりも、同情の色合いが濃い。屈辱に顔を歪ませ、真夜美は達巳を睨み付ける。と――唐突に扉が開いた。
 すらりとした痩身。切れ長の目に、漆塗りのような艶やかな瞳。穏やかな、しかし地味ではない、静謐とした美しさ湛えた妙齢の女性がそこに立っていた。
 ふと目が合い、彼女の名にふさわしい、蠱惑的な桜色の唇が、小さく笑みを刻んだ。
 佐倉桃香。榮凛学園高等学校の保健師であり、この保健室の主でもある女性が、半開きになった扉の奥から、困惑の表情を浮かべ、こちらを窺うように覗いていた。
「何かあったの? 今、ものすごい音がしたけど……」
 そう言って近づいてきた桃香は、真夜美の額に出来上がった見事なこぶを見て、目を瞬かせる。そして、『あら』と口元に手を当て、にっこりと微笑んだ。
「とりあえず、手当てしよっか?」
 
 

つづく


あとがき

Rhapsody In Blue