MEDICINE CACE
著者 朝霧 夏樹
 
「あっくんそれなあに?」
 相変わらずの舌足らずな声に促され、篤志は顔をそちらに目を向ける。信号を待つマーチのハンドルを得意げに握り、里香がこちらを見ていた。
 暖房の効いた車中だというのに、里香は白いセーターの上に赤いカーディガンを羽織り、さらに手作りと思しき黒いマフラーまで巻いている。
 これでも一応分厚いカシミアのコートは脱いでいるのだ。完全防備の里香に駅のホームで声を掛けられたとき、篤志は開口一番、『シベリアにでもご旅行で?』と皮肉ってしまった。
 案の定、里香はぷくっと頬を膨らませ、十年ぶりの再会だというのに、しばらく口を利いてくれなかった。どうやらもっと感動的な再会を期待していたらしい。ぶちぶちと文句を垂れる里香を拝み倒し、どうにかマーチに乗り込んだのがつい先ほどのことだ。
 二十五にもなって……そうは思うのだが、里香との間に横たわった十年という空白を考えれば、仕方のないことなのかもしれない。
 篤志が家を飛び出したのはちょうど十年前。当時付き合い始めたばかりの里香には、何の相談もしなかった。何をどう話したらいいのかも分からなかったし、何よりもそこまで気が回らなかったのだ。
 事実、電話口で泣く彼女をなだめ諭したのは、事を起こしてから、一ヶ月が過ぎてからだった。
 それから十年。紆余曲折を経て戻ってきた篤志をこの街で最初に見つけたのが、里香だった。
 電話一本で関係を終わらせてしまったのだ。篤志は憎まれ口くらい聞いてやるつもりだったが、里香は背筋がくすぐったくなるような昔の愛称一つで、十年間の空白を埋めてしまった。
 再会してからまだ一時間もたっていないというのに、今では当時の事をだしに軽口を叩き合える。そんな根拠のない自信が篤志にはあった。それは、里香の人懐っこさがによるものだろう。
「あっくん?」
 名を呼ばれ、篤志ははっとした。
 どうやら無遠慮に里香の事を見つめてしまっていたようだ。慌てて視線を逸らす篤志を、里香は何処か居心地が悪そうに、そして少し批難するように見た。
「何だよ?」
 ちくちくと、背中に刺さる視線を意識してか、篤志の声は硬い。
 里香はくすりと笑うように息を吐き、前を見た。信号が赤から青へと変わる。
「さっきから気になっていたんだけど、あっくんの胸元にある銀色の……入れ物――かな? 何かなって思って」
 里香の言うとおり、篤志の胸元には確かにボールペンのキャップの先ほどの銀の円筒がぶら下がっていた。
 同色のチェーンが通されたそれには、微細な彫刻が施されており、プラチナの装飾品のようにも見えるが、逆に何処か大仰で、ステンレスの安物にも見える。
 言ってしまえば、良く分からない代物だった。
 篤志はひょいとそれをつまみ上げ、何かを考えるように見つめていたが、すぐに襟元からシャツの中に落とし、隠してしまう。触れてくれるなという、意思表示だった。
 里香も最初こそは眉を顰めたものの、結局何も言わず、その代わりというように深くアクセルを踏み込んだ。
 加速していく景色を眺め、篤志はシャツの上から、その銀の薬入れを握り締める。
 布越しにでも如実に分かる冷たさに、否応無しに引き出される記憶があった。
 それは、風化に晒されてなお、鮮明に蘇る。
 
 
 そんなつもりは無かった。小学生だった篤志がそう言ったとしても、一体どれだけの人が信じてくれただろうか。当時篤志が置かれた状況を考えれば、仕方のないことだと、誰もが納得したかも知れない。
 篤志の父は、若くして心臓を患っていた。それが理由で会社を解雇され、温和だったという父は変わった。酒を飲んでは母に暴力をふるい、まだ幼かった篤志にまで、手を上げるようになったいう。
 物心ついたときからすでに父の暴力に晒されていた篤志には、優しい父というものがどうしてもイメージできなかった。
 今になって思えば、不当に仕事を奪われた父の気持ちも分からなくもないが、それでも当時のこと思い出せば、怒りを感じるし、憎しみを覚える。それほどまでに、篤志に対する父の暴力は苛烈を極めていた。
 躾や折檻。範疇はどうあれ父はそう称して篤志を殴っていた。
 箸の持ち方が悪いと言われては殴られ、戸が開けたままだったと叩かれる。やれ目つきが気にくわないだの、目障りだのと言いがかりまで付けられた。声が小さいと言われた翌日には、声がでかいと蹴られた事もある。
 少年の篤志からしても、父の言い分は理不尽に思えたが、歯向かうという考えには思い至らなかった。そんな事をしようものなら、骨の一本や二本を折られかねない。
 何より、身を呈して守ってくれる母に、申し訳がなかった。
 今でこそ、虐待だと児童相談所に届けだされるが、おめでたいことに児童虐待防止法が施行されたのは、ここ数年の話だ。当時は明らかな虐待を見つけても、それを通告する義務は誰も負っていなかった。
 いつしか篤志は、父を醒めた目で見るようになっていた。酒を飲み、喚き散らし、暴力の限りを尽くし、そして最後にはすがり付いて泣く。
 父の目に映っているのは篤志でも母でもなく、漠然とした不安の現れである社会であり、解雇を言い渡した上司ではないのか。
 そのことに気付いたとき、篤志は這い蹲りながらも、声を出して笑っていた。
 笑うたびに蹴られた腹が悲鳴を上げたが、それでも笑い続けた。
 自分より弱いものを虐げることでしか、自らの力を固持出来ない父。傍から見たらそれは、まるで自分が弱いと認めているようなものだった。
 何だ、こいつはそんなに弱かったんだ。
 そう思った次の瞬間、篤志は咽いだ。思いがけず吸った息が気管に吸い込まれていた。
 血痰を吐き出し、さびた鉄の味を奥歯に噛み締める。今この時、自分が弱いと見下した男の前に膝を折っているのは誰だ。他ならぬ自分自身ではないか、と。
 親と子の差ではない。体格でもない。肉体的なものではなく、精神的に篤志は父に屈していた。
 父がしたようにまた自分も、父を見下すことで、わずかばかりの矜持を満足させているに過ぎない。
 情けないと思うより先に、怒りが篤志の中に溢れた。髪の毛の一本一本。爪の先まで血管が伸びているかのように、血によって怒りが体の末端まで運ばれる。
 何も出来ない自分が許せなくて、守りたいと思った母の背中に自分が守られていることが悔しくて……気付いたときには奥歯が一本、音を立てて折れていた。
 いつか母の前で誓ったことがある。自分は父のようにはならないと。母の事を大切にすると。だから、自分が大きくなったら一緒に逃げよう、と。
 母はそんなことは言うものじゃないと戒めたが、その目は涙で濡れていた。
 蹴られても、殴られても泣いたことのなかった母が、ただ一度、見せた涙。その意味を、篤志は推し量ることが出来なかった。
 自分の言葉が嬉しかったのか、悲しかったのか、そんなことすら分からない。
 ただ、それからだった。篤志が父に対して殺意を覚えるようになったのは。
 たとえ死という概念を知らなかったとしても、父がいなくなる事を望んだその感情は、殺意といって差し障りないだろう。
 篤志はいち早く父から解放され、母と二人で暮らしたいと願うようになっていた。
 
 
 秋もすっかり暮れ、山の頂が白く染まり始める頃、学校から帰ってきた篤志は、酔いつぶれて寝ている父を見つけた。
 四六時中機嫌の悪い父だが、寝起きのときは度を越えている。起こして怒りを買わぬよう、篤志はそっとふすまを閉め、外に遊びに行こうとした。
 と、そのとき、ふと篤志は父の胸元にぶら下がっている銀色の筒に気がついた。
 微細な彫刻が施された円筒。篤志の小指ほどの大きさで、薬きょうのような冷たい輝きを放っている。
 着崩れた父の中にあって、無機的な色を見せるそれは、異様なまでに目を引く。篤志は知らぬ間にそれを手にしていた。予想していたよりも重い。質量以上に、何か大切なものが詰まっている、そんな重さだった。
「これって……」
 目の高さまで掲げて見て、篤志は以前にもそれを見た事があるのを思い出した。
 確か、夏祭りの後――珍しく機嫌のいい父に手を引かれ、母と三人で宮参りに行った後だ。急に血相を変え、父は無い無いとつぶやきながら家中を駆けずり回った。
 何がないのかと思えば、銀の薬入れだそうだ。家族そろって、夜だというのに畳をめくり捜したが結局見つからず、後日父は新しいものを買って来た。
 這いつくばって机の下を覗く父の姿が滑稽だったので、良く覚えている。あの時はまるで絞首台の前に立たされたように、真っ青な顔に脂汗を浮かべていた。
 父を困らせてやりたい。そう明確な意思を持ったとき、すでに篤志は家を飛び出していた。
 霞がかった幼少時代の記憶の中で、その一点だけが今でも鮮明に思い出すことが出来る。いつも帰宅の目安にしている、近所の製紙工場の終業チャイムが鳴ってすぐだった。けたたましいサイレンを鳴らし、せまい路地を一台の救急車が駆け抜けていった。
 糸を引くような音だった。心の深奥がざらつき粟立つ、そんな不快な音。瞬く赤色灯が、セピア色の記憶の中で、毒々しいまでに紅く輝く。
 笑い声が絶えることのなかった町並みが、水を打ったように静かになり、そして広がった波紋が異質なざわめきとなる。心なしかそれは、篤志の家に近づけば近づくほど、強くさざめいて感じられた。
 知らぬ間に、篤志は走り出していた。予感というほど明確な形はとっていなかったが、漠然とした不安が心の底に沈殿していく。何かが起こっている、根拠のない確信に、篤志の心臓は張り裂けんばかりに脈打った。
 家に着くと、すでに玄関口に小さな人だかりが出来ていた。まだものめずらしかった救急車の周りを、近所の子供たちが取り巻いている。
 大人と子供が隔絶された空間。改めて見る救急車の曲線的なフォルムよりも、篤志は人垣の方に不安を覚えた。
 恐怖に打ち勝とうと、篤志はぎゅっと手を握る。熱が巣食ったように熱い体にあって、一点だけ妙に冷たいところがあった。右の手の平の中。握った銀の冷たさが、理性を繋いでくれていた。
「どいて! 通して!」
 無骨な大人たちの間に強引に体を押し込み、篤志は人垣に割って入った。
 もみくちゃになりながらも、一歩ずつ確実に前に進む。そして、どうにか最前列に進み出たとき、ステレオのボリュームを絞るように、ふっとざわめきが消えた。
 何が起こったのか。篤志は事態を把握しようと目を見開き、玄関を見やる。と、篤志の瞳がきゅっと奥まった。
 粛然とした面持ちで出てきた救急隊員の後に、父が担架に乗せられて運ばれてくる。
 何がどうなっているのか分からない。無意識のうちに篤志が進み出たところ、家から出てきた母と目が合った。
 悄然とした母の瞳に、篤志の顔が映り込む。そのとき初めて、篤志は自分が何の感情も宿さない、のっぺりとした表情をしていることを知った。
 母が駆け寄ってくる。つり橋の上を歩くように、ゆっくり、ふらふらと。
 篤志の元に来るや否や、母は膝から崩れ、篤志を他人の目から隠すように抱きしめた。
「ごめんね、篤志。ごめんね……」
 うわごとのように、母はつぶやく。だが、その声はすでに篤志の意識の外にあった。
 モーゼのごとく人垣が割れ、篤志と母だけが取り残される。夕陽を吸い込み、緋色に輝く瞳で、篤志は運ばれていく父を見た。
 目を見開き、恐怖に引きつった顔。苦悶にゆがめられた口元からは、だらしなくよだれが垂れ下がり、ひたすらに醜悪なその表情は、卑小な父にお似合いだと、篤志は笑った。
 声にも、顔にも出さず、篤志は心の中で笑っていた。
 
 
 車が止まったのは、幼少を過ごした見慣れた家ではなく、街のはずれにある小さな墓地の駐車場だった。
 ここだけは、何年たとうが忘れられない。父が死に、ようやく解放されたというのに、年に一度は必ず、母はここを訪れていた。
 無かったことにしてしまいたい時を、否応なしに思い出させる。何度も嫌だと言った。駄々をこねた。だが、そのたびに母は困ったように笑うだけで、決して帰ろうとも、そして無理矢理に連れて行こうともしなくて、結局篤志が根負けしていた。
 もう二度と訪れないと思っていた場所だった。
「ごめんね、あっくん。最初に言ってあげるべきだった」
 しゃがみこみ、墓石に刻まれた母の名をなぞる篤志の背中に、里香は力なく言う。
「いつだ?」
「三年前。脳梗塞で倒れて、そのまま……」
「……そうか」
 重々しく頷いたきり、篤志は口を閉ざしてしまった。
 服の上から、胸元にある薬入れを弄ぶ。体温に触れていたというのに、どういうわけか、薬入れは依然冷たいままだった。
 父の死と、薬入れの関連に気付いたのが中学の終わり、七回忌の法要の席だった。
 それまで聞かされていなかった父の死因を知ると、喉に刺さっていた小骨が取れたように、違和感が拭われた。
 確認するまでも無かった。『心筋梗塞』という声に、挨拶に回っていた母の顔から、表情という表情がごっそりと抜け落ちたのを、篤志は見逃さなかった。
 母と何を話したのかは覚えていない。正気を取り戻したときには、すでに上りの最終電車の中にいた。
「母さん、最後に何か言ってたか?」 
 墓石の先にある何かを見るように、篤志は遠い目をしている。懐かしむようでも、悲しむようでもなく、ただ、憮然と。
「ずっと黙っていて、ごめんなさい……って」
 篤志は頷いただけで、それ以上は何も言おうとはしない。
 何処か子供を思わせる篤志の背中にいたたまれなくなり、里香は一つの疑問を口にした。
「ねえ、あっくん。黙っていたっておばさんの言葉、やっぱりあっくんがここを出て行ったことと関係があるの……?」
 しばらく黙っていた篤志だったが、やがて『いや』と、思い出したようにつぶやいた。
「母さんのことは怒ってなんていない。黙っていたのだって、どうしようもなかったからだ。ただ、恐かったんだ」
「恐かった?」
 とつとつと出る篤志の言葉に、里香は声を挟んだ。何も言わなければ、そのまま黙ってしまうような気がしていた。
 里香の言葉を聞き逃したわけでもないだろうが、篤志はそれには答えず、言葉を捜すように天を仰いだ。
 すでに空の端には闇が滲み始め、西に向かいじりじりと侵食を始めている。
 どこまでも高く遠い空。そこにはたくさんのものがあるようでいて、その実何もない。篤志の口をついて出たのは、空ではなく、心の底で見つけたものだった。
「……なあ、里香。母さんは、笑っていられたのかな……親父に殴られて、俺に捨てられて、それでも母さんは、笑っていられたのかな……」
 力なく、笑った。親とはぐれた迷い子のように、途方に暮れた、なんとも弱々しい笑み。
 篤志はまだ、家を飛び出したときから、迷子のままなのだ。
 帰り着くことのない疑問を抱え、さまよい続けてきた。
 幼かったとはいえ、人一人殺した子供を抱え、母は幸せでいられたのだろうか。
 どんな顔で、自分に接していたのだろうか。
 その優しい声の裏側で、一体何を考えていたのだろう。
 考えれば考えるほど、思考の糸は絡み合い、ついには母の顔も思い出せなくなってしまっていた。自分が紡いだ糸が、本当の記憶に繋がっているのか、それとも架空の記憶に繋がっているのか、そんなことも分からない。
 母に会えば全てが知れる。そう思いやってきた。真実を受け止められる自信があったわけではなく、ただ、これ以上知らないでいることに、耐えられなかっただけ。
 でも、その母も、もういない。唯一、答えにたどり着ける糸は永遠に切れてしまっていた。
「私にはさ……おばさんが何を思っていたかなんて分からないよ」
 里香は篤志に習い、空を仰ぐ。意味があったわけではないだろう。ひとつ呼吸を入れてから、篤志の背中に目を向けた。
「でも、きっと大丈夫だと思う」
 そう言う里香の顔は、子を見守る母のような、穏やかな笑みを湛えていた。
「あっくん。人はね、人を映す鏡なんだよ」
 静かに歩み寄り、里香はそっと包み込むように、篤志を抱きしめた。
「あっくんを見てると、あっくんの周りの人も見えてくる。おばさんが何を思っていたのかは知らないけど、私が知っているあっくんはずっと笑っていたよ。すごく楽しそうにしていた。多分……そういうことなんじゃないかな」
 どこまでも透き通った里香の声。幾重にも重ねられた篤志のフィルターをやすやすと突き破り、彼女の言葉は心で響いた。
 意図せず、篤志は里香の手に触れる。付き合っているときでさえ、握ることの出来なかった小さな手。肌理細やかな白磁のような肌は、木枯らしの中にあって、信じられないほど温かかい。その手は、あの日――父が逝った日、自分を抱きしめてくれた母の手に、良く似ていた。
「そうか……なら、いい。それなら、いいんだ」
 篤志は自分に言い聞かせるように何度もつぶやく。
 母が笑ってくれていたのなら、それでよかった。
 里香の腕の心地よさに屈してしまう前に、篤志はやんわりと彼女を払いのけ、立ち上がる。背負っていた温もりに未練はあったが、それはまだ、取り戻せる距離にあるような気がした。
「んじゃ、帰ろうか」
 里香に向かい、手を差し出す。多少の戸惑いを見せたものの、里香は大きく頷くと、篤志の手をしっかりと握った。
 銀色の冷たさは、まだ胸元で揺れている。でも、春になればきっと、暖かな陽光に照らされ、ほのかな温もりを得るのではないか。そんな気がした。


あとがき
 話を纏めるということがこれほどまでに難しいのかと、改めて思い知らされた作品でした。
 起承転結と四等分にして考えたはずなのに、「結」がやたらと長い。しかも最後で全説明。さらに微妙に落ちていない。構成力がまるでないですね……
 焦点を父と子に置くのか、それとも母と子にするのか、もしくは薬入れに置くのか。決めずに書いたことに問題があったようで、「結」で異常に手間取ってしまいました。
 ただ、今まで作品を完成させたことが二回ないし三回の私としては、無事完成にこぎつけられたと、胸をなでおろしています。
 不満はたくさんあるのですが、こだわって完成しないよりは次に繋げたいと思い、掲載させていただきました。
 唯一の不安はやはり、これが企画の意図に沿っているかどうかですね……微妙です。
 
 それでは、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

Rhapsody In Blue