幻影
著者 黒島 宮城
 
 どこか虚しいチャイムが授業の終わりを告げた。号令がかかり、教師が退室すると教室は和やかな喧騒に満たされる。
 今日もモノトーンの一日が終わった。いつまでこんな日が続くのだろう?
 礼をし終わった後、直立の姿勢のままそんなことを考える。この後の予定、昨日のテレビや好きな歌手の話題、俺にはどうでもいいことなのに意識しなくても周囲の雑談が耳に入ってくる。
 こんなうるさい場所では思考が纏らない。どちらにしろ纏ることなんてないのだが、俺は誰が書いたかもしらない机の落書きを眺めながら素早く教科書類を鞄に突っ込んで教室を出た。
 その際、何人かが複雑そうな視線を向けてきたが、なにか行動を起こすでもなく自分達の会話に戻って行った。

 もう夕方だというのに太陽は西の空に居座り、うだるような陽射しを投げかけてくる。それでも汗ばむ程度で済むのは、ひとえに海風のおかげだ。潮の香りを含んだ風が制服の袖から入ってくるのはなかなか気持ち良い。クーラーの涼しさは偉大だが、自然の風も捨てたものではない。
 空はどうしようもなく青かった。
 雲はどうしようもなく白かった。
 そして、互いが互いの純粋さを際立てていた。
 しかし、そんな突き詰めた色を見ていてもなんの感慨も湧いてこない。こうして無機質な地面の上で大の字になっていたら気分がすっきりするなんて、フィクションが生み出した幻想だ。
 図書館に向かう途中、ふと思い立って屋上に来てみたが、十分も経たないうちに失敗だと思い始めていた。
 日中ずっと暖められたコンクリートのベッドは暑さに慣れてくると睡眠欲を刺激した。これでは教室に居るのと同じだ。
 しかし、なにも考えなくてもいいと思うと、ほっと息をついている自分が居る。
 もし、その感情に実体があったなら殴りつけてやりたい。思考すら止めてしまったら、俺は「死んでないだけ」の状態になってしまうじゃないか。ただその一方で、まだ生に執着するのかとそれを嘲笑う人格もある。生きる意味はなくなったんじゃないのか?
 結局いつものように相容れない想いがぶつかって俺の頭はぐちゃぐちゃに塗りつぶされる。今日に至っては、更にそこへ眠気が混ざってしまい、しまいには気持ち悪くなってきた。
 やっぱり図書館にしよう。いや、もういっそのこと帰ろうか?
 とにかく校内に戻るため体を起こした時、錆びついた屋上の扉が悲鳴にも似た音を立てて開いた。
 誰か来た。
 俺は反射的に体を戻した。屋上の給水塔の真横、つまり位置的には扉の上に居たので、横になっていればよほどのことでない限り見つからない。
「なあ、ライちゃん。いいだろ? こんだけアプローチしてんだからいい加減俺と付き合ってくれよ」
「今日はそのことについてはっきりと言うために高杉さんを誘いました」
 俺は目を覆った。どうやら厄介な場面に居合わせてしまったらしい。可能なら退席したいが、ここで出て行くのも気まずい。仕方なく静観することにした。
「俺の彼女になってくれるのか?」
「いいえ、逆です。高杉さん、もうあたしに付き纏わないでください」
 女の声には明確な拒絶が宿っていた。しかし、男の方は怯まない。
「おいおい冗談だろ。そんなつれないこと言って、本当は俺に好きって言われて嬉しいんだろ?」
 俺は仰向けのまま眉を顰めた。この男はかなりの自信家か、あるいは頭のネジが何本か失くしてしまったのだろう。なによりも不愉快なのは、その声に聞き覚えがあることだ。
「いい加減にしてください!」女の方が声を荒げた。「あたしは高杉さんみたいな人はタイプじゃないんです。それに知らないとでも思ってるんですか? 高杉さん、あたしの他にも何人か声をかけているでしょう? そんな女たらしの人と付き合えません」
「なるほど。俺が他の女に目を向けることに嫉妬してるんだな。大丈夫、ライちゃんが付き合ってくれるなら俺は他の女には一切見向きしない――」
 男が言い終わる前に乾いた音がした。わざわざ見なくてもそれがなんの音なのかわかる。
「最低ッ!」
 精一杯の嫌悪を孕んだ言葉を残して、女は去って行った。
 俺は地面に耳をそばだてて、足音が遠のくのを確認してから体を起こした。
「くそっ、押しに弱い女じゃなかったのか……。見通しが甘かったな」
 男はビンタされた頬を押さえてぶつぶつと呟いていた。
「いくら押しに弱かったとしてもあんなやり方じゃ、受け入れてもらえるはずがない」
 急に降ってきた声に体をびくりとさせた男がこちらを向いた。
「寺岡か。見てたのか?」
「見てはない。聞いていただけだ。別に盗み聞きするつもりはなかった。だが一応、悪かったな高杉」
「いや、別にいいさ」高杉は首を振る。「他の奴ならともかく、お前なら俺を妬んで今の失敗を言い触らすようなことはしないだろうからな」
 そもそも妬む要素がない。しかし、俺はいちいち訂正しなかった。それが高杉との最良の付き合い方だからだ。
 高杉は自分の映った鏡と女しか見ていない。そして、自分に都合のいいことしか聞いていない。当然のように周りの人間からは背を向けられているが、自分の悪評は耳をすり抜けていくので堂々としている。揺るぎない芯を持っているのは少しだけ羨ましかった。欲しいとは思わないが。
「そういえば、寺岡と話すのはかなり久し振りだな。最近顔出してないみたいだけど、もう部活には来ないのか?」
「部活か……」俺は高杉から視線を外し、天を仰いだ。「そんなのもあったな」
 一年の頃は熱心に通っていた軟式テニス部には二年になってからというもの、一度も行ってない。そして、これからも行く予定はなかった。
「どうした、悩みでもあるのか? 話してみろよ。俺ならどんな悩みも一発解決してやるぜ」
「そりゃ頼もしいな。悩みがあったら真っ先に相談する」
「任せろ。俺は友達想いだからな。親友のお前のためならいつでも時間を割いてやる」
 高杉が胸を張るのをよそに、俺は酷く動揺していた。「親友」という言葉。なんでもない、ただの言葉だ。それなのに俺の心は鷲掴みにされ、激しく揺さぶられる。足元がおぼつかなくなり、膝から崩れ落ちそうになる。場所が場所だけに、足を踏み外そうものなら地獄へ一直線だ。俺は梯子を使って急いで給水棟から降りた。
「さて、俺もあんまり暇じゃないんでそろそろ行くよ」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ」
 扉を開けようとしていた高杉が、取っ手を握った体勢のまま振り向く。
「まだなにか用か?」
「悩みが、一つあった」
 別に助言が欲しかったわけじゃない。ただ、誰かに聞いて欲しかったのだと思う。
 どの道を行っても行き止まりで八方塞がりの状態だった。
 だから、誰かに話すことで気を紛らわしたかったのだろう。きっとそうだ。いつもの俺なら高杉に話しかけなかった。高杉が屋上から出て行くのを待っていれば、誰にも気づかれずに場所を移動できたはずだ。なのに、それをしなかった。俺は無意識のうちに人が恋しくなっていたのだろうか?
 高杉は一瞬きょとんとしたが、顔一杯に笑みを浮かべた。
「そうかそうか、高杉大先生になんでも言いなさい。悩みはなんだね?」
「そうだな、なんて言えばいいんだろう……」
 そこまで口にして、俺は言葉に詰まった。吐露したい気持ちはあるのに、喉に突っかかって出てこない。言語に変換できないから吐き出すことができない。俺は額に手をやって、苦し紛れに声をひねり出した。
「俺は……生きていていいんだろうか?」
「はあ?」
「違うな。生きることに意味ってあるのか、の方が近い」俺は知らず知らず自分に自問するような口調になっていた。「俺はなぜ生きているんだ?」
「んなもん知るか」
 せっかく苦労して捻出した悩みをばっさり切り捨てられ、ショックを受けた俺は顔を上げた。そこでじっと俺を観察していた高杉と目が合う。その瞬間、高杉の顔がしたり顔に転じた。
「寺岡。お前さ、童貞だろ?」
 不意の問いに頭の中が真っ白になった。どの文脈をどう繋げれば、その質問が湧いてくるのだろう。
「そ、そうだけど、それとなんの関係があるんだ?」
 高杉は俺の肩をなれなれしくポンポンと叩いた。俺はその手を払い除ける。
「一回女を経験してみろよ。そんな些細な悩みなんて吹っ飛ぶぜ」
 元々期待はしていなかったとはいえ、あまりに酷い対応だった。自分の正面の的に射かけ、三つ横の的に命中している。便秘に悩む人に「下から出ないなら口から吐き出せばいいじゃないか」と言うようなものだ。
 俺は高杉に話を聞いてもらうのを諦めた。
「金言をありがとう。じゃあ、俺は用事を思い出したから――」
「まあ、待てよ」高杉は肩に腕を回して、強引に俺の体を自分に引き寄せた。「相手は居るのか?」
「これから探すさ」
「そうだろうと思ってな、耳寄りな情報があるんだよ。聞きたいか?」
「もったいぶらずに言えよ」
 高杉は大事な情報だとアピールしたいのか、周囲に人気がないにも関わらず口を俺の耳に寄せて囁いた。
「保険医の佐倉桃香を知ってるか?」
 名前に聞き覚えはなかった。ただ保険医と言えば、この学校には一人しか居ない。脳裏に白衣を身に纏った女の姿がおぼろげに思い浮かぶ。しかし、綺麗な人だという覚えはあっても、それ以上個性を肉付けできなかった。朝起きた時に夢を思い出せなかった時のようなもどかしさを覚える。
 確か評判は良かったはずだ。親身になって相談に乗ってくれると何度か耳に挟んだことがある。
「その桃香さんがどうした?」
「うちの生徒と肉体関係をもってる。しかも一人じゃなくて複数の人間とな」
 愕然とするよりも、釈然としなかった。そんなメロドラマみたいな展開が現実にあるとは、どうしても信じられない。頭の中でのっぺらぼうの美女が扇情的に微笑んだが、ただのファンタジーだった。
「噂じゃないのか?」
 美人というのは得てして話の種になりやすい。そこに誰かの嫉妬や下心などが介在すれば、噂になる。それが悪いものであるほど、噂は広がりやすいものだ。
「そういう噂は前からあったらしいな。でも、俺は偶然セックスしてる現場を見ちゃったんだなー」
「要するに覗きだろ。自慢するな」冷静を装ったが、俺は混乱していた。ただ、高杉は物事を誇大化することはあっても嘘をつくような奴ではない。「それで結局、なにが言いたい?」
「わからないのか? にぶい奴だな。それをネタに迫るんだよ。きっと童貞を捨てられるぞ」
「その言い振りからして、お前は迫ってないみたいだが、女好きのくせになぜアタックしない?」
「俺はストライクゾーンが狭いんだよ。上下二歳差までだ。俺と彼女は歳の差があり過ぎる。よっぽど差し迫らない限り、俺は彼女を抱かない」
 高杉は胸を張った。恋愛に歳の差なんて関係ない、という名言もこいつの前では張りぼてに過ぎなかった。
「まあ、頑張ってこいよ」
 高杉に背中を叩かれて、俺は前によろめいた。命令されているようで不愉快だったが、これで高杉から解放されると思うと、気が晴れた。
 俺はそのまま屋上を扉を開き、そこで顔だけ振り返った。
「高杉」
「うん?」
「偉そうなこと言ってたけど、お前も童貞だろ」
 引き攣った顔が、錆びた扉に遮られた。
 
 夕日がようやく水平線に沈みかけ、空も薄っすら闇に染まってきたので帰ろうかと思ったのに、エントランスへの道中にふと保健室の前で足が止まってしまった。
 高杉に従ったわけではない。正直に言ってしまえば、ただの好奇心だ。生徒と関係を持つ保険医というものを一度拝んでみたかったのだ。
 若干の後ろめたさを覚えつつ、四角く切り取られた小窓から中を覗く。少し視線を彷徨わせてから、机に向かう後姿を見つけた。
 影の混じった夕日を浴びて鈍く輝く艶やかな髪。後ろで一つに束ねられていて、白衣によくマッチしていた。しかし、その背中はなんだか悲しげで、親を探す迷子のような危うさが漂っていた。
 気づけば、俺はそのオーラに誘われるようにして扉を開けていた。ガタガタと音を立てたにも関わらず、彼女はまるで聞こえていない様子で作業を続ける。俺は声をかけていいのか迷った末に及び腰で一歩、二歩と彼女に近づいた。
 背後に立つと、ほっそりとした柔らかそうな白い足が白衣から垣間見えた。控え目ながら、ほんのりと甘い匂いもする。
「抱きついたりしないでね。もうちょっとで終わるから、大人しく待ってて」
 唐突に彼女が口を利いたので、俺は一瞬飛び上がりそうになった。
「それにしても今日は随分早いのね」
 動悸が聞こえないか心配する俺の前で、彼女は変わらぬ姿勢で書類にペンを走らせている。
「先生」
 場の空気に耐え切れず、俺は口を開いた。効果はてきめんだった。彼女は手からペンを落とし、組んでいた足を解いて立ち上がった。座っていたスツールがけたたましい音を立てて倒れる。びっくり眼と目が合った。
「あなた、誰!」
「せ、生徒です」俺は動転した声に気圧されて口ごもった。「この学校の……」
「……ああ、ごめんなさい、いきなり怒鳴ったりして。別の人と間違えちゃったのよ」
「いえ、こちらこそすいません。声をかけるタイミングがわからなかったので」
「そうね、遠慮せずに言ってくれた方がよかったかも」
 彼女はぎこちなく笑い、それから耳に手をやった。よく見れば、魚を模したピアスを掴んでいる。ピアス仲間だ、と思った。俺の耳にぶら下がっているのは星型のものだが、輪郭が似てないこともなかった。
 気まずい沈黙が流れる。僅かに開けられた窓から忍び込んだ風がカーテンをなびかせていた。運動部の青春を謳歌する声も遠くに聞こえた。
 俺は目を合わせないようにしつつも、目の前の女を観察した。
 中性的なすっと通った鼻梁と切れ長の目。その中にある瞳はどこか遠くを見ているように物憂げだ。なにか塗っているのだろうか、桜色の唇は男を誘うような魅力がある。想像していた通りというべきか、想像以上というべきか、佐倉桃香は美人だった。
「今日はどうしたの?」気を取り直した桃香が、俺の気をそらすように切り出した。「見たところ怪我したってわけじゃないみたいだけど」
 相手が話題を変えようとしているところに「俺を誰と勘違いしたんですか?」とか「その待ち人はいきなり抱きつくような人なんですか?」と穴を掘り返すような真似をするのは気が引けた。
 出会い頭に「生徒と関係を持ってるって本当ですか?」などと聞くのはもってのほかだ。
「保険医ってどんな仕事をするんですか?」
「養護教諭よ。保険医は別に居るの。そうね、だいたいあなたも知ってることだと思うけど、怪我した生徒の手当てとか、悩みを聞いてあげるとか、健康診断や保健指導が大まかな仕事かな。そんなこと聞くために、こんな時間に来たの?」
 桃香は口に手を当てて、控え目に笑う。
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
 俺は頭を抱えたい気分だった。なぜ保健室に入ったのだろうか? 好奇心を満たすだけなら廊下から覗いていれば済んだはずなのに。
「ちょっとね、悩みがあるんですよ」迷った末に俺は白状する。高杉よりはまともな返答が聞けるはずだと思えば、少し気が楽だった。「人はなんで生きるんですか?」
「どういうこと?」
 桃香はちょっと面食らっていた。俺は乏しい語彙を尽くして自分の中のもやもやを必死に言葉にする。
「俺は毎日のように学校に来て勉強してるけど、それになんの意味があるんですかね?」
「そういうことね」桃香は納得した顔で頷く。「きっと先行きが見えないから不安なのよ。あなたの年齢じゃあ、それは仕方のないことだし、あなた一人だけがそうやって悩んでいるわけじゃないから安心して。実は今日来た別の子もあなたと同じように悩んでいたわ。仮にも教育の場で仕事している人間がこういうこと言っちゃいけないんでしょうけど、世の中なるようになるわ」
 俺は顎の下を掻きながら首を振った。
「違います。そういうこと言ってるんじゃないんです。今は将来のことを考える余裕なんてないんです。俺が言いたいのはもっと根本的なことで……例えばだけど、死んだら悲しむ人が居るっていうじゃないですか。でも、それは死ぬことを回避する理由にはなっても、直接生きる理由にはならない。否定の否定は肯定じゃないんだ。俺は生を肯定する理由が欲しいんです」
 桃香は真剣な面持ちで柳眉に寄せて唸る。
「要するに、生きる気力が湧かないってことかしら?」
 やはり心の内の全ては伝わらなかったようだ。しかし、俺は不思議と充足感を得ていた。
 二年生に進級してからというもの、誰かとまともなコミュニケーションを取ったのはこれが初めてだった。高杉とは言葉のキャッチボールが成立しないし、家族とも事務的な話しかしていない。だからこそ『会話』が新鮮で、身に染みた。
「大方そんなところですね」俺は自然と口元が緩むのを感じた。「具体的には朝ベッドから出られない、とか」
「まあ、それは大問題だわ」
 桃香はくすりと微笑んだ。それから、ふっと表情が引き締めると頭を下げた。
「ごめんなさい。正直に言って、私はあなたの悩みに対する答えを持ち合わせていないわ。一般論を持ち出すことはできるけど、それでは意味ないものね」
「いいんですよ。聞いてくれるだけで十分助かりました」
 俺は本心を口にする。桃香のあっさりと自分の非を認める姿は清々しさすらあった。しかし、頭を上げた彼女の目はまだ諦めてはいなかった。
「でも、あなたが生きる目標を失ってしまった原因があるはず。その原因がわかれば、解決の糸口が見えてくると思うの。よかったらその原因を一緒に考えてみない?」
 目の前の養護教諭が生徒から支持を得ているのがわかる気がした。そして、ここまで親身になってくれる彼女の熱意に応えなければならないと思った。
「原因は、考えるまでもなく既にわかってるんですよ」
「えっ、なんなの?」
「先生、佐藤健って知ってますか?」
 桃香は顔を強張らせた。それから、今気づいたかのように俺をまじまじと見つめる。あまりに不躾な視線に耐え切れず、俺は目を逸らさなければならなかった。
「あなた、もしかして」信じられないといった口調で桃香は尋ねる。「寺岡隼磨くん?」
「はい、驚きました?」
「それはもちろん! あなたのことは聞いていたけど、見せてもらった写真とは印象が全然違うもの」
「整形は、してませんよ」
 俺はぽりぽりと頭を掻く。
 桃香の驚きは無理もなかった。一年生の終わりまで黒かった俺の髪は現在、根元まで金髪だ。他人を遠ざけるために服装も随分『ラフ』にしたし、ピアスも開けた。
 そして、桃香の見たという写真に映る俺はもっと愛嬌が良かっただろう。顔のパーツは何一つ変わってないが、その頃の笑顔を再現することは今の俺には不可能だ。
「そういうことだったの。実はね、あなたが来たら相談に乗ってあげてって言われてたのよ」
 桃香はようやく事態が呑み込めたとばかりに溜息をついた。
「先生はどこまで知ってるんですか?」
「その日、仕事の都合で学校に居なかったのよ。後から事件のあらましだけは聞いたんだけど、なんで佐藤くんがあなたに手を上げたのかは全然聞いてないの。無理にとは言わないけど、よかったら話してくれる?」
「いいですよ」
 この人なら大丈夫だと思った。立場上、言い触らすような真似はしないだろう。なにかしらの光明を俺に与えてくれるような淡い期待を懐かせるだけの誠実さを感じた。
「どこから話しましょうか」
「ちょっと待って」いきなり眼前で人差し指を立てられたので、俺はびっくりした。「立ち話もなんだから、座らない?」
 俺にスツールを勧め、桃香自身も腰を降ろした。そこに椅子があるのに、立ったまま話しているという光景は、傍から見たらかなり滑稽な光景じゃないかと今更ながらに気づいた。
 
 
 物心ついた時から周りを見渡せば友達が居て、幼少期から中学校の終わりまで受験戦争とも縁のない生活を送ってきた俺にとって、高校の入学式は特別な意味を持っていた。
 自分の机で体を小さくして、顔を伏せたまま他人を拒絶するほど内気ではなかったが、それでも顔見知りが居ないという状況は、知らない町に置いてけぼりを食ったような不安を懐かせた。
 誰に話しかけようか。初めて味わう胃がねじれそうな緊張は、今思い出しても苦い。
 教室に充満したよそよそしい雰囲気が、絡まった糸のように少しずつ少しずつ打ち解けていく中、流れに乗り切れず、焦燥感がピークに達した時だった。俺の視界にぬっと人が現れた。顔を上げるよりも先に、目の前のものに視線が吸い寄せられた。
 黒いスラックスから覗くのは、水色と深緑色と白のチェック模様だった。
 間抜けのように口をぽっかり開けたまま数秒それを眺めてから、ようやく俺はその男を見上げる。日光みたいに眩しい笑顔が向けられていた。
「よう」
「よ、よう」
 相手が軽く手を上げたので、俺も応じた。しかし、どうしても視線が下がっていく。
「どうした、なんか言いたそうだな」
「……チャック、開いてるぞ」
 逡巡してから俺は告げた。罰当たりな言い方だが、見事な観音開きだった。余すところなく、一番下までチャックは降りていた。
 こいつは入学式の最中もずっとチャック全開のまま過ごしていたのだろうか? そうだとしたら、こいつの高校生活はかなり崖っぷちに立たされている。これをネタに三年間虐められる可能性は十分にあり得る。
 しかし次の瞬間、俺の心配はどこか彼方へ吹っ飛んだ。
「開けてんだよ」
 緊張が解けたというよりは脱力した。そして、堪えようのない笑いが一気に押し寄せた。
「胸をわざと当ててる、みたいな言い方するな」
 それが、佐藤健との邂逅だった。
 最高の出会い方をした俺と健は最高の関係を築いていった。同じ軟式テニス部に入り、いつも行動を共にした。「寺岡と佐藤はできてる」と冷やかされたが、健はそれすら笑いのネタにした。
 はなさかじいさんのように、言葉を振りかけ笑顔を咲かせる。やや気性が粗く配慮に欠けるところもあったが、決して無頓着ではない。とにかく、健は気の良い奴だった。
 俺は健との友情が少なくとも高校の三年間、長ければ一生続くと信じて疑わなかったし、健もおそらくそれに近いことを思ってくれていただろう。
 しかし、信じるだけではなにも形にならなかった。あるいは、俺の信心が足りなかったのかもしれない。
 俺達の間に亀裂が生じたのは二学期も終わりに入った頃だった。なにかと世話を焼いてくれた三年の部活の先輩を、健が好きになったのだ。それまでに何度か三人で遊びに行ったことがあったが、その回数が増えた。俺は受験生である先輩の勉強の心配こそすれども、三人で出かけることに不満は感じなかった。むしろ俺は邪魔ではないかと思ったが、健と先輩が望んだので金魚のふんのように一緒について行った。
 しかし、その時点で確実に溝が生まれていたのだろう。そして、始めは目を凝らして見なければわからない程度だったものが、水滴が岩に穴を穿つように徐々に深くなっていったのだ。
 ようやく気づいた時にはもう遅かった。慌てて埋めようとして、皮肉にもその衝撃で崩壊は始まってしまった。
「あたし、ゆまっちのことが好きなんだ」
 俺は呆然と立ち尽くした。『隼磨』の名をもじってつけられたあだ名がしっくり来なかった。いっそのこと、俺のあだ名でなければどれだけ良かったことか。
「ごめんね。急にこんなこと言って」先輩は左手に握った卒業証書の入った丸筒を振りながら弁解するように言った。「でも、今日を逃したらもう機会はないと思ったから」
「いつから、ですか?」
「二学期の途中ぐらいからかな。メールとかで結構アプローチしてたんだけど、ゆまっち気づいてくれないんだもん」
 先輩は頬を膨らませて、拗ねた振りをする。
 俺は頭に手をやって首を振った。どうして毎回毎回二人が俺を誘ったのか、遅まきながら思い至る。
 健は先輩の気持ちを知っていたのだ。だから先輩を引き出すために俺を餌にした。最終的には自分が釣り上げる自信があったのだろう。先輩は先輩で俺に近づくチャンスを得て、喜んだのかもしれない。蚊帳の外に居たはずの俺は、知らないうちに渦の中心に立っていたわけだ。
「四月から学校では会えなくなるから、一緒に居る時間はどうしても少なくなるけどさ、あたしはそれでもいいんだ。よかったら付き合ってくれない?」
「……なんで」しばらく無言を貫いた末に振り絞った一言。「なんで俺なんですか?」
「優しいところ、なんて月並みな言葉がほしい? そんなのあたしにはわからないよ。しょうがないじゃん、好きになっちゃったものはさ」
 無責任な台詞が、剥き出しになった俺の気を酷く逆撫でした。
「じゃあ俺じゃなくても、健でもよかったじゃないですか。健が先輩のこと好きなの知ってるでしょ?」
 ついつい険のこもった声で一歩詰め寄ってから、俺は自分の失態に気づく。心の赴くままに口を滑らしてしまった。
 しかし、俺の予想に反して先輩は口の端を歪めただけだった。
「ああ、やっぱりそうなんだ。確信はなかったけどね、うん、知ってた。だけど、それも仕方のないことだよ」
 その時、出会ってから初めて先輩に憎しみを懐いた。それはつい先日、「卒業式の日に告白するんだ」と先輩へのプレゼントを真剣に選んでいた健を見ていたせいもあるだろう。男二人で試行錯誤の末に購入した、あの鈍色銀のアンクレットは一体どうなるのだろうか?
「俺は仕方がないとは思わない。すいませんが、俺は先輩と付き合えません」
 終始、笑みを浮かべていた先輩の表情が初めて曇った。伏せた目には隠しきれない悲哀が滲んでいた。それでも流石は健が好きになった人というべきか、先輩はすぐに微笑みを取り戻した。
「そっか。残念だけど、すっきりしたよ。後学のために理由を聞かせてもらってもいい?」
「健が惚れた人とは付き合えません」
 先輩の微笑が固まった。そして気丈な仮面の下にあった激情が顔を覗かす。下唇を噛み締め、愛情と憎悪がどろどろに溶け合った瞳で睨んできた。
 我を忘れていた俺はその視線を受けてもなんとも思わなかった。むしろ、化けの皮が剥がれたとすら感じていた。
「酷い答えだね」やがてそう呟くと、先輩は俺に背を向けた。「まだ『ブスだから』とか『性格が悪いから』とか、言われた方が、よかったな」
 とぼとぼと去っていく先輩の肩は震えていた。
 まだ冬が尾を引いていて、例年早いものなら既に咲いていてもおかしくないはずの桜が蕾をつけるに留まっていた。俺は寒々しい桜の木を見上げながら、先輩に対する憤りに暮れた。その怒りは日を跨いでも収まらなかった。
 だから、健に殴られるまで自分の失態に気づかなかったのだ。
「ふざけんじゃねえぞ!」
 翌朝、登校するなり俺の姿を認めた健は咆哮にも似た怒鳴り声を上げ、殴りかかってきた。予期せぬ行動に俺は避けることもできず、机や椅子が倒れる派手な音ともに地面に転がった。舌に鉄の味を感じた。
「いきなりなにするんだ」
 俺は傷む頬を押さえて、声を荒げた。健は持っていた鞄を放り投げ、こちらに歩み寄ると俺の腹を容赦なく踏みつけた。
「知らないとは言わせないぞ!」健は足を上げると、再度足を振り下ろす。腹に力を込めたが、想像以上の力に朝食を吐き出しそうになった。「お前、先輩になにをした!」
「告白を、断った……」
「そうじゃないだろ。その程度で、あの人があんなこと言うはずがない!」
 健は歯を剥き出しにして、更に数回踏みつけた。それから俺に馬乗りになり、胸倉を捻り上げた。くぐもった声が口から漏れる。
「俺が惚れたせいでお前に振られたってどういうことだ!」
 振りかぶった拳が俺を打つ。意識が飛びそうになった。
 まだ十人も揃ってなかったクラスメイトの中で、俺と健を除けば唯一の男子がそこで止めに入った。
「おい、健。なにがあったのか知らないけど、殴ることはないだろ」
「うるさい。関係ない奴は黙ってろ!」
 鬼の形相に威嚇され、クラスメイトはすごすごと引き下がる。健は俯いて、しばし持て余した激情を落ち着けるように沈黙した。誰もが息を飲んでいた教室は不気味なほど静かだった。
 やがて、健が顔を上げた時、俺は後頭部を殴られたようなショックを受けた。
 健の目は赤く腫れていた。瞳に湛えた悲しみは、底が見えなかった。
「『好きになる相手はあたし以外でも良かったじゃん』ってどういうことなんだよ……。なあ?」
 それは俺が先輩に言ったのと同じ台詞だった。しかし、親友の口から発せられた言葉は、まるで別の言葉のような残酷な響きを孕んでいた。好意を懐く行為すら否定する。それは自由を奪うのと同じだ。
 先輩の捨て台詞が頭の中でこだまする。確かに最低の答えだ。先輩はどうしようもなかった。なにかが悪かったわけでもなく、自分とは関係のない健を引き合いに出されて拒絶された。鬱積したわだかまりの矛先が健に向くのも当然だ。
 惜しげもなく涙を流す先輩になじられた無実の健は、一体どんな顔をしていただろうか?
「そんなのねえだろ……。じゃあ。俺はどうすればよかったんだよ。おい、なんとか言えよ!」
 健の声は再び怒気を孕んだものになっていた。
 俺は、自分が二人の人間に生涯消えないであろう心の傷を負わせたことを知る。よりにもよって、大事な人にだ。
 自分の安易さが嫌になった。本心を告げるのが必ずしも良いことではないと知りながら、勇気を持って告白してきた先輩を傷つけた。間接的――この際、直接的と言っても過言ではない――に健も傷つけてしまった。
 俺をだしに使った健よりも、健の好意を利用した先輩よりも、俺は何倍も下衆だった。一番最低なのは俺だ。
 元々大した抵抗も反論もしていなかったが、俺は一切の反抗を放棄して健のなすがままにされる。殴られ、罵られ、足蹴にされ、唾を吐きかけられた。途中、何度か制止しようと試みたクラスメイトが居たが、体格では右に出る者の居ない健は妨害をほとんど意に介さず、俺を殴打した。
 やがて意識が輪郭を失い始める。俺は蚊の鳴くような声で「すまん」と繰り返していた。しかし、自分の口から紡がれる謝罪はぞっとするほど白々しく聞こえた。
 そして。駆け込んでくる複数の怒声を聞いたのを最後に俺は失神した。
 気がついた時には病院のベッドに居た。
 
 
「そういうことだったのね」
 桃香はやるせなさそうに呟き、黙り込んでしまった。どこか沈んだ表情を見て、俺は奇妙な達成感に包まれた。
 窓際に置かれた観葉植物を眺める。植木鉢から伸びる幹に巻きつくように葉がついている。銀行の観葉植物は強盗に襲撃された時、犯人の背丈を測るためにあるらしいが、保健室にある観葉植物にもなにか深い意図があるのだろうか。
「寺岡くん、もしかして自分が居れば健くんの退学を防げた、なんて思ってないでしょうね?」
「なんのことですか?」
 何気なさを装ったが、明らかに失敗だった。気が緩んでいたところに図星を突かれて、顔の筋肉が引き攣っているのが自分でもわかった。案の定、桃香は俺の嘘を虚勢を看破した。彼女は組んでいた足を解き、俺の両肩に手を添える。そして、包み込むような視線で俺を見据えた。
「いい? 健くんが手を上げたのはあなただけじゃないの。だから、あなた一人がどれだけ彼をかばったとしても、退学は覆らなかったわ」
 健は俺のほかに仲介に入ったクラスメイトに軽傷を負わせ、そして俺が意識を失った後に駆けつけた教師二人を殴った。前者だけなら停学で済んだかもしれない。しかし、後者はいかんともしがたかった。おそらく桃香の言う通り、俺が身を呈して守ったとしても決定は変わらなかっただろう。
「でも、それでも……なにかできたかもしれないじゃないですか!」
「なにかって、なに?」冷たいと言っても過言ではないほど冷静な言葉が俺を射抜く。「あなたには具体的になにができたと思うの?」
「退学を防げたと決まったわけじゃない。それに、駄目だったとしても相談に乗ってやるとか、できることはたくさんあったはずだ!」
 自己矛盾を抱えつつも、ここで自分の無力を認めるのだけは嫌だった。
 桃香は、俺が保健室に来てから初めて見せる厳しい表情で腕を組む。
「じゃあ聞くけれど、あなたなら自分が暴力を振るった相手にかばわれてどんな気分になる? そんな相手に相談できる?」
 冷や水を浴びせられて、目が覚めた。半立ちになっていた体から力が抜け、崩れるようにスツールに腰を落とした。両手で顔を覆う。どこまでも厚顔無恥なこの面を見られたくなかった。この期に及んで俺は自分のことばかり考えていたのだ。なにか罪滅ぼしがしたくて、健の気持ちも考えずに行動しようとしていた。
 着信拒否されたために家に押しかけて「祖母の家に居ます」と母親に感情を排他した声で告げられた。あの時は途方に暮れたが、初めて健と連絡がつかないことに感謝した。もし会話できたら、俺はなにを口走っていたかわからない。その時こそ、手遅れだ。
 否、既に後の祭りなのだ。
 その事実は水面に落としたものが浮かんでくるように滑らかに、それでいて唐突に俺を襲った。愕然とした。ずっと向き合っていたつもりなのに、俺は無意識のうちに目をそらしていたのだ。
 悲しくて視界が滲んだ。背中を丸めて、今にも零れようとする涙を引き止める。俺には泣く権利はない。繰り返し自分に言い聞かせた。
 ようやく落ち着きが取り戻した時、手に温もりを感じた。目を向けずとも、それが桃香の手だとわかる。
「人は誰でも失敗するの。あなたはこの失敗を乗り越えなくちゃいけないわ」
 後頭部に感じた声は優しさに溢れていた。俺はその声に導かれるように顔を上げた。目の前に桃香の顔があった。白い柔肌はクラスの女子よりも数倍綺麗だった。
「でも、そうそう簡単には割り切れないわよね」
「えっ?」
 薄い唇の端が少しだけつり上げ、あっけらかんと桃香は言い放った。思わずきょとんとした俺に向かって片目を瞑ってみせる。男がやったら気持ち悪い仕草も彼女がすると魅力的だった。ただ、冷静な部分だけは年代の差を感じていた。
「違うかしら? それとも、諭されたぐらいですぐに切り替えられる単純なことだったの?」
「違います」
「そうでしょう。健くんの存在が大きかったからこそ、あなたはそこまで悩んでる。その気持ちはとても素敵だし、我慢する必要はないわ。だから今は無理しなくていいの。男の子がうじうじしちゃいけない法律だってない。思う存分悩むといいわ」
 桃香はそこで思いついたように手を合わせた。
「そうだ、屋上にでも行ってきたらどうかしら? あそこは静かだし、ゆっくり考えられるんじゃない?」
「今日行ってきたばかりです。あそこは居るだけで眠たくなる」
「じゃあ、海なんてどう? あんまり近いと逆に行かない場所でしょう。広い海を眺めながら考えに浸るなんて今のあなたにぴったりじゃないかしら?」
 本当に良い人だ。俺は相槌しながら、しみじみと実感する。辛抱強く話に耳を傾け、相手の立場に立って助言するのは簡単なようで難しい。しかも相手を悲観的な気分にさせないのだから感心してしまう。今となっては打ち明けて、幸いだったとすら思う。
 しかし一方で、桃香の株が上がれば上がるほど、それをエサにするかのように頭の中で疑問符が増殖していく。なぜ。なぜ、あなたは――、
「なんで先生は生徒と肉体関係を持ってるんですか?」
 弛緩した空気がぎゅっと圧縮され、保健室が一回り小さくなった錯覚に捉われる。既に部活動の時間は終わっていた。周囲に浸透した静謐が突然敵意を持った存在となって俺を圧迫する。
 桃香は表情の抜け落ちた様子で固まっていた。それは放心しているようでもあり、驚いているようにも見えた。口だけはぱくぱくと口を動かすが、言葉が出てくる雰囲気はない。
 きっと育ちがいいのだろう。俺はぼんやりと思う。子どもの頃に自分を偽る必要に迫られなかったから、降って湧いた動揺を隠す術を知らないのだ。
 不意に、桃香がスツールから立ち上がった。あまりの勢いに、俺はびっくりした。なにかされると思いきや、彼女は背を向けて窓辺に寄り、窓を閉めて鍵をかけ始める。黙々と繰り返される作業は、黒魔術の儀式のようにも見えた。
 いつの間にか窓の外では夜の帳がすっかり世界を覆いつくしていた。幽鬼のような桃香の後姿を見ていると、濃紺の闇が室内に忍び込むのを恐れているかのようだった。しかし、実際には誰かに話を聞かれるのを恐れての行為だとわかる。
 全ての窓と鍵を閉め終え、カーテンを引いた桃香が物音一つさせずに、再び俺の前に腰を下ろす。たった十数秒の間に彼女は不気味なほど落ち着きを取り戻していた。
「なぜそれを知ってるの?」
「その現場をたまたま見ちゃったんですよ」
 高杉を庇うメリットはないが、名を出すのは道義に欠ける気がした。
「いつ頃?」
「……最近、ですよ」
「具体的にいつ?」
「二週間ほど前」
 俺は桃香の顔に安堵がよぎったのを見逃さなかった。早くもメッキが剥がれたか。すぐさま頭を切り替え、言い訳を考え始める。しかし、怖れた追及はいつまで経ってもやってこなかった。代わりに桃香は冷静な口調で尋ねる。
「それで、あなたはどうしたいの?」
「質問に答えて欲しいんですよ。実際に話してみて、俺には先生が生徒をたぶらかすような人には思えない。なのになんで、それも複数の生徒と……」
「買い被りじゃないかしら。ちょっと話しただけで、人の性格なんてわからないでしょう」
「一理ありますね。でも、先生の場合は嘘だ」
「嘘だったとしても、答える義務はないわ」
「言いふらしますよ」
「それはダメ。だけど、質問に答えるつもりもないわ」
 桃香は断固として言い放つ。その態度には譲らない固い信念のようなものが漂っている。俺には殻にこもった人間を引きずり出すほどの話術はない。
 脳裏に健の悪戯っ子のような笑顔が浮かんだ。胸がずきりと痛む。確かに、口の上手い健ならば桃香を説き伏せることも可能かもしれない。だが、もう居ないのだ。本当の意味でその事実と向き合えた今、一際強い喪失感に襲われた。
「じゃあ、言いふらさない見返りに、他の奴にしたみたいに俺にもしてくださいよ」
 胸にぽっかり空いた穴を埋めたくて、半分冗談で口にすると、桃香は顔面蒼白になった。
「無理よ。そんなこと、できない」
「あれもダメ、これもダメ。じゃあなんだったらいいんですか!」
 荒げた声で自覚していた以上に本気だったことに気づいた。
 いつの間に俺は桃香に魅了されていたのだろう。悩みを吐露している時だろうか。それとも、保健室の扉に手をかけた時にはもう手遅れだったのだろうか。
 桃香はいよいよ悲愴な面持ちになって弁明する。
「わかって。あなたはこっちの側には来ちゃいけないの」
「散々生徒をつまみ食いして俺だけはダメだって? ふざけるな!」
 俺は椅子を倒しかねない勢いで立ち上がった。歯の隙間から荒い息が漏れる。桃香の小動物みたいな怯えた瞳が見上げてくる。顔色を窺いつつも、まったく反抗する意思のない姿に嗜虐心が刺激され、鳥肌が立った。
 押し倒してしまえ。怒りの後ろ盾を得た性欲が俺を唆す。
 しかし、俺は動けなかった。童貞の足枷は頑丈で、激情はなす術もなく組み伏せられる。捌け口を失った感情が俺の体内で弾けた。
「もういい!」
 俺は保健室から飛び出した。
「待って、お願い。私の話を聞いて」
 後ろから追いすがる桃香の声を振り切り、扉をぴしゃりと閉める。そして、静まり返ったリノリウムの廊下に足音を響かせながら走って逃げた。攪拌された感情に頭を占領され、なにがなんだかわからなかった。どうしようもなく叫びたい衝動に駆られる。
 しかし、前方に見えた人影に僅かばかり理性を取り戻したために叶わなかった。
 薄明かりの中に浮かび上がった男は癖のある茶髪を伸ばしていて、俺より二回りは大きかった。容姿はあまり似ていなかったが、どことなく健に似た雰囲気を持っている。男は走る俺を怪訝そうに一瞥したが、すぐに興味を失ったように視線を外した。
 ――抱きついたりしないでね。もうちょっとで終わるから、大人しく待ってて。
 すれ違った直後、桃香が最初に口にした言葉を喚起した。
 教師も生徒も大半が帰宅して静まった校内。誰かを待つ美人養護教諭。保健室の方向へと向かう荒々しい印象の男。
 幾つかの要素が俺をある想像に導く。保健室のベッドを仕切るカーテンに浮かび上がる男女の絡まるシルエットだ。男が保健室に向かったという根拠はないのに、その妄想が脳裏にこびりついて離れない。今にも、二つの甘い吐息が耳元で聞こえてきそうだった。
 俺は吐き気を催した。学校から飛び出したところで電柱に手をついてえづく。しかし、口から漏れるのは嗚咽だけだった。
 
 
 目を落とすと、そこには満潮時の跡が砂浜に残っている。波が「自分はここまで辿り着けるんだ」と主張しているようで微笑ましい。海面上昇の問題もあるから、やがて波の努力が報われて、学校もろともこの街を沈めてしまう日が来るかもしれない。そんな映画があった気がするなと思いながら、俺は砂の乾いた場所と湿った場所の境界線をなぞるように波打ち際を歩いていた。寄せては返す波に目を落としていると、だんだん思考が麻痺してくる。
 立ち止まって、顔を上げる。オレンジ色を帯びた水平線が揺らいで見えた。
 広大な海はどこか死を思わせる。果てしなく続く単調な海原からは世の中の空虚さを、底の見えない深さからは救いのなさを連想してしまうのだ。
 今日はいつにもまして、死の臭いを強く感じた。昨日、あんなことがあったせいだろうか。
 俺は知らず知らず顔を顰めていた。一晩経って冷静さを取り戻すと、なぜ自分が激しく取り乱したのかわからなかった。確かに、桃香が綺麗な女であることは疑いの余地はない。俺が惹かれていたのも事実だ。しかし、振られた程度で我を忘れるような人間ではないつもりだった。
 桃香に相対した時に湧き上がった、暴力的な性衝動が頭から離れない。結局行動に移すことはなかったが、もし襲っていたらと思うとぞっとする。やはり、彼女には他の女とは違う悪魔的な魅力があるとしか思えなかった。
 俺は再び海岸線をぶらぶらと歩き始める。すぐに捨てられたペットボトルに躓いた。包装の剥がれかけた、そのペットボトルを拾い上げた。そして、特に意味もなくペットボトルを傾けて海水を入れた。
 引っかかることがもう一つある。それは最初に俺が口にした質問だ。桃香が生徒と関係を持っている理由。嘘のつけないところを見ても、彼女が真面目な性格であることは間違いないだろう。彼女のような人間は教え子との背徳的な関係に強い抵抗を感じるはずだ。なし崩しに付き合っている線も薄い。俺を拒絶した時の決然とした態度をもってすれば、迫ってくる生徒を追い払うのは難しくない。
 それでも、まだ一人なら納得できる。生徒が教師に恋心を懐くように、教師が生徒に惚れることだってあるだろう。しかし複数の生徒となると、その推測も脆く崩れてしまう。
 どちらにしろ、謝罪も兼ねて今一度保健室を訪ねる必要がある。
 そう思いながら、俺はいつしか砂山を作り始めていた。砂を集め、ペットボトルに汲んだ水を上からかけ、ペタペタと手で押し固める。一連の行為を繰り返していると、砂山はみるみる大きくなっていった。
 膝丈よりも高くなったところで、今度はトンネル作りに没頭する。道具になりそうなものが落ちてなかったので、砂山を崩さないように注意を払いながら手で穴を掘った。半分ほど掘ったら、反対側から掘る。
 トンネルが繋がった時の達成感は、子供の頃と比べても遜色なかった。
 シャツにじんわりと汗が滲んでいた。砂遊びは一人でするものではない。友達とやるからこそ、充実した遊びになるのだ。
 健は今頃なにをしているだろうか? 俺はかつての親友を想起する。
 日々アルバイトにでも勤しんでいるのだろうか。それとも別の高校に入り直して、新たな学生生活を送っているのだろうか。様々な想像が浮かんでは消える。ただ、祖母の家でだらだらと一日を過ごす姿だけはイメージできなかった。
 ふと、連絡が取れなくなって以来健のことを考えるのが初めてだと気づいた。今までは俺の胸の中心で仏頂面を浮かべる健の幻想にばかり捉われていて、現実の健がなにをしているのかなど考えていなかった。
 これは進歩かもしれない。そしてその進歩は、紛れもなく桃香によってもたらされたものだ。
 嘆息のような息を呼気を吐き、なんとはなしに周囲を見渡した。海や砂、防波堤を通り過ぎたあるところで目が止まった。
 いつから居たのだろう。目と鼻の先で男が蹲っていた。年の頃は俺と同じくらいで、まくり上げた袖から細いが引き締まった二の腕が覗く。手入れを怠り太くなった眉とその下で焦点の定まっていない吊り目が、だらしなく開け放たれた女のように薄い唇と混在するややちぐはぐな顔をしている。
 俺の目は自然と男の手元に吸い寄せられた。男はルーティンワークのように砂山を作っていたのだ。
「ふっ」
 つい数分前の自分を第三者の視点から見ているような気分になり、俺は吹き出した。放心していた男が振り向き、焦点が俺の姿の上で交わる。初めてその相貌に驚きの表情が表れた。そのまま視線が横滑りして、俺の足元に立つ砂山に向けられる。
 男はむっとした面持ちで俺をもう一度見るや、それまで熱意の欠片も窺えなかった砂山作りに熱心に取り組み始めた。その時点では、俺の山の方が見るからに大きかった。男が俺の笑い声の意味を誤解しても無理はない。そして、わざわざ説明してやるほど仲は良くなかった。
 やがて男が立ち上がった時、彼の足元には俺のよりも一回りでかい砂の山ができあがっていた。にやりと勝ち誇った笑みを浮かべた相手に拍手でも送ろうかと思ったが――
「ふん」
 顎をしゃくり上げ、横目で見下しながら鼻で笑った瞬間に手が止まった。
 理性がガラスのように割れるのがわかった。そしてその向こうからめらめらと燃える対抗心が顔を出す。
 いい度胸じゃないか。
 俺は男に応えて満面の笑みを浮かべた。好意とは正反対の感情を湛えて。
 そしてお互いに視線を外した時、期せずして勝負の火蓋は切って落とされた。勝敗のつけ方すらわからないが、そんなことはどうでも良かった。
 俺はペットボトルを取り上げ、砂の山に飛びつく。横を盗み見れば、男も再び座り込んで山に向かっていた。水をかける。砂を肉付けする。叩いて強度を強める。最初は単調な作業だけだったが、やがて大きくするだけに留まらなくなってきた。
 まず、俺が山のデザインに凝りだした。城でも作って格の違いを見せてやろうと思ったのだ。しかし、男は対抗して水路を作りだした。一つだった山は二つ、三つと数を増やし、やがて町の体をなす。
 いちいち爪に砂が入るのを気にしていられなかった。ペットボトルの海水も、何度汲んでもすぐなくなってしまう。まどろっこしくなり、途中からもう一本空いたペットボトルを見つけてきた。
 月に追いやられるようにして太陽が西の空に沈み始めても、生暖かい風が吹く季節だ。いつしか額には砂が付着し、脇は汗でびっしょりと濡れていた。
 俺は溜息と共に砂浜に両手をついて、足を投げ出す。
 どうやら勝負は俺の勝ちらしい。規模も完成度も俺の方が一枚上手だった。悔しそうにこちらを睨む男の顔が結果を物語っている。
「はっ!」
 俺は先程のお返しとばかりに、嘲笑をお見舞いしてやった。男はぐっと唇を噛み締めていたかと思うと、使っていたペットボトルを持ち上げた。一瞬なにをするのかと思ったが、すぐに思い至った。しかし、気づくのが遅かった。ゆっくりとした動作で男が振りかぶる。
 そして、投げた。
 運悪くまだ水が残っていたために、ペットボトルは潮風に押し戻されることなく変則的な回転を伴って、俺の傑作に向かって飛んでいく。両手をついていたために俺は動き出しが遅れた。
 結果、二時間超の集大成は、なす術もなくプラスチックの塊に文字通り粉砕された。
 俺は言葉なく、残骸と化した砂山と男を見比べる。男は、まさか命中するとは思ってなかったというように驚愕を顔に張りつかせていた。
 やがて、男は背を向けて逃走した。俺に追う気力は残されていなかった。
 仕返しに男の砂山も壊してやろうかと思ったが、それも大人げないと気づく。つくづく馬鹿らしくなり、俺は砂浜に体を投げ出した。
「ガキか……」
 
 
「失礼します」
 俺は何度か保健室の前を行ったり来たりしてから、意を決して扉に手をかけた。
「はい」
 二日前と同じように机に向かっていた桃香が、俺の姿を認めた瞬間に強張った。
 予期していた反応とはいえ、緊張が一気に高まるのがわかった。俺は立ち去りたい衝動を抑え、軽く頭を下げた。
「どうも」
 桃香はおそらく笑顔であろう引き攣った面持ちで「いらっしゃい」とかぼそい声で呟き、前回同様にスツールを勧めた。俺は大人しく従って腰を降ろしたが、それからが続かなかった。
 怖れていた沈黙が早くも場を蝕み始めた。桃香はなにか言いたげな仕草はするが、目線を合わせようとすらせずに、俺の言葉を待っている。訪ねて来た手前、俺が先に口を利かなくてはいけない雰囲気になっていた。
「……なんていうか、すいませんでした」
 半ば自棄になりながら、今度は深々と謝る。声が少し裏返った。
 しかし、一旦口を切ってしまえば、体内のしこりのようなものがすーっと音もなく消えていくのを感じた。なぜ気まずさを覚えていたのかすら曖昧になってしまうから現金なものだ。
「顔を上げて」
 言われた通りにすると、今度は視線を外されることはなかった。現金なのは俺だけじゃないらしい。
「私の方こそ問い詰めるような真似してごめんなさい」
「いや」俺は首を振る。「元はといえば、俺があんなこと言ったから」
「それじゃあお互い様ということで、この話は水に流して綺麗さっぱり忘れちゃいましょう」
「それは、ちょっとだけ待ってください」
 俺が割って入ると、桃香の顔がさっと曇った。だが、さすがに一昨日ほどの動揺はない。心の機微を気取られまいとする意志が見え隠れしている。
「なにか不満でも?」
「蒸し返すようなことはしたくないんですけど、でもこのままじゃ俺の気が済まないんですよ。だから最後にもう一度だけ聞かせてください。答えたくないなら答えたくないでいいです。俺はそれで諦めますから」
 桃香は口を真一文字に結んで、黙り込んだ。しかし、彼女のなんとも言えない哀愁を湛えた瞳は俺を捉えて離さない。今にもその目を通して葛藤が流れ込んできそうだった。
 いつまでも反応らしい反応を見せないので、俺はそれを無言の肯定と受け取ることにした。
「なんで、俺じゃいけなかったんですか?」
 俺は膝の上で手を組んで、横目でベッドの方を見やる。光の加減次第では透けてしまいそうなカーテンは開放されている。保健室だけあって、清潔感溢れる真っ白なベッドが物も言わずにただ並んでいる。しかし、俺の目には生々しいほどの存在感を放って見えた。
 それもこれも、桃香とあの野獣のような生徒の痴態を妄想してしまったせいだ。
「先生のお眼鏡に適わなかったのは、他の生徒と違うのは、俺のどの部分なんですか?」
 抑揚を抑えたつもりが、思いのほか沈んだ声になった。
 桃香の顔色がますます曇っていた。耳のピアスを握る手に力がこもっている。
「健のことと、今度のことでずっと一人で考えてたんですよ。俺のなにが悪くて、いつも人を傷つけてしまうんだろうって。でも全然わからなくて、正直まいってるんです。健にはもう聞けないから、先生教えてくださいよ。先生を抱く奴等に比べて俺はどこが劣ってますか?」
「違う!」桃香は激しく首を振った。「違うわ。あなたはどこも劣ってなんかいない。むしろ、劣っているのは私達の方かもしれない」
「俺は慰めなんて求めてないです」
「じゃあ寺岡くん、あなたは教え子とセックスする教師を立派だと思うの?」
 桃香は自虐的な笑みを浮かべて尋ねる。演技じゃないとは一目でわかった。
 俺は混乱した。それが他人に誇れる行為じゃないとわかってて、なぜするのか。まさか――
「なにか弱みを握られて、脅されてるんですか」
「いいえ」
 はっきりとした返答とは反対に、桃香は曖昧に微笑む。まるで、俺の言う通りだったらよかったかのように。
「私があなたを拒んだのは、あなたはまだ引き返せるから。手遅れじゃないからよ」
 いつまでも続く曖昧な返答に、かっと沸騰しかけた気持ちに水をかけ、深呼吸する。同じ失敗を繰り返すのはごめんだ。
「手遅れってなんですか? ちゃんとわかるように説明してください」
「ごめんなさい。やっぱり詳しいことは話せないの。だから納得してくれなんて無理な頼みでしょうね。だけど、これだけは言わせて。私は生徒を弄んで喜ぶような女じゃない」
 桃香は必死に訴えると、口を閉ざした。そして、また貝にこもってしまった。
 実際に手を上げて降参のポーズをとりたい気分だった。怪訝な顔をされるのは目に見えてるので踏み止まったが、代わりに盛大な溜息が口から漏れた。
「自分が言いたいことだけ言ってお口にチャックですか。身勝手ですね」最後に精一杯の皮肉を言って、愛想笑いを浮かべる。「でも約束は約束ですから、ちゃんと守りますよ。もうこの話は終わり。もう掘り返したりしません」
「ありがとう。ごめんなさい」
 桃香は目に見えて頬が緩んでいた。その反応が気に食わなくて俺は黙殺した。ただ話題に挙げないだけで忘れるつもりは毛頭ない。もちろん、諦めるつもりもなかった。
 それから十分ほど桃香と他愛のない話をした。世間話とすら呼べないただの言葉のやり取りは口にした傍から忘れた。そして、頃合いを見計らって俺は引き上げることにした。
「健のこともあるし、また来ていいですか?」
 保健室から出る時、思い出したように装って尋ねた。
「ええ、遠慮する必要はないわ。私にできることは少ないけど、いつでも来て」
 屈託なく自分の胸を叩いてみせる切り替えの早さがまた不満で、返事をせずに踵を返した。ところが、廊下に出たところで呼び止められた。
「そうそう、聞き忘れてたけど海はどうだった?」
「特になにも。……いや、変な奴に会いました」
 一度しか会ったことのないにも関わらず、ペットボトルを投げつけた男の姿は俺の脳裏に焼きついていた。勝ち誇ったり、悔しがったり、表情豊かな彼を思い出すと二度と作れないだろう芸術作品を壊された怒りと、なぜか一握りの笑いが同時にこみあげてくる。それはとても不思議な気分だったが、不思議なことに悪くない気分だった。
「どんな子なの?」
「説明すると長くなりそうなので、また今度来た時に覚えてたら話します」
「期待してるわ。ところで、これで屋上、海と来たけど今度はどこでたそがれるの? 図書館かしら?」
「図書館はもう飽きました。今度はプールに行こうと思ってます」
 
 
 すぅっと空気を吸い込み、体を前に倒す。全身が水に浸かったと同時に足を踏ん張り、壁を蹴った。
 独特の浮遊感が俺を包む。頭上に伸ばした手の爪先から密着させた両足の爪先まで、一本の棒になったかのように体を張って、その感覚に身を委ねる。水は音もなく俺を前へと運んでくれた。
 五メートルほど進んだところで推進力が弱まる。ゆっくりと右手を掻いた。水を後ろに押しやり、回転の要領で水面から手を出し、再び指先から水に進入する。それと同時に足を小刻みにばたつかせた。すると、また推進力が俺を押し進める。右手、左手、右手と三回掻いて、息継ぎをした。普段感じることはないが、一瞬の息継ぎで吸い込む空気は妙に新鮮で美味しく感じる。
 水中眼鏡を通して見るコバルトブルーの世界はちっとも神秘的ではない。それは視界を埋め尽くすのが人工的な白いタイルだからだ。これが珊瑚礁であれば、また違ったかもしれない。その様子を想像しようとして、俺は生の珊瑚礁を拝んだことがないのを思い出した。
 雑念に惑わされているうちに青いタイルが視界に入った。チラリと顔を上げると、無機質な壁が目前に迫っていた。俺は頭を抱え込むように丸め、ターンの体勢に入る。そのまま水中で反転してから、曲げた膝にぐっと力をこめて壁を蹴り出した。ごぼごぼと気泡が発生し、水面に浮き上がっていった。そして、また先程と同じように泳ぎ始める。
 昔から泳ぐのが好きだった。下手の横好きではなく、速さにも自信があった。実際、水泳部の連中を除けば一番速く泳げたと思う。それでいて、ずっと水泳部とは縁遠い生活を送ってきたのは、小さい頃から付き纏うある恐怖のせいだ。長い時間遊泳を続けていると、やがて五感が形を失い、水と一体化したような気分になる。その感覚がとても気に入っていたが、ある時ふと本当に体が溶けてしまうのではないかという妄想に捉われた。それ以来、長時間泳いでいると突如不安に苛まれるようになった。
 その時々の体調や精神状態にもよるが、だいたい二時間を超えた頃から胸騒ぎがする。そうなると、もう泳ぐ気が失せてしまう。一刻も早くプールから出るしかない。
 馬鹿らしい。自分でもそう思う。しかし、泳ぐこと自体には支障がないので深く考えずに今日に至っていた。どうせ、いつもは水泳部が独占して使えないのだ。こうして水泳部がミーティングする日を狙ってたまに泳げれば満足だった。
 何度かターンを繰り返してから休憩する。ゴーグルを外し、飛び込み台に背を預けた。
 時計を見上げると、五時二十分。泳ぎ始めてからもう一時間が経過していた。それでも肩の重さも、足の張りもあまり感じない。この習慣を始めた頃に比べて随分進歩したものだ。
 一瞬満足しかけて、首を振る。競泳目的でやってるわけじゃないんだ。
 俺は自分の腹に目を落とした。ごつごつとした起伏のある腹筋。しかし、見てくれが良くてもただのお飾りでは意味がない。この固い筋肉は思い切り踏まれた時、その圧力に耐えうるだろうか?
 いまいち自信が持てなかった。また学内のトレーニングジムに行って、もっと鍛えなければならない。どれだけ乱暴を受けても、気絶しない体を作るために。
 桃香は、健に殴られた時に俺が気絶しなくとも結果は同じだと言った。確かに一理ある。あの状況ではなにを言っても健を逆上させるだけだし、無理矢理抑え込もうにも歯が立たなかった。
 だが、もしあの時俺の方が健よりも強かったらどうだろうか?
 自分だけは殴られ、クラスメイトや教師に対する暴力だけを止めることができたなら、結果は変わっていたはずだ。そんな幻想が俺を肉体改造に駆り立てた。
 もっとも、俺がかばった時の健の心情を桃香から指摘された今、この習慣は名分を失っていた。
 それでも続けているのは、ちゃちな幻想を諦めきれないからだ。同じような局面になった時、同じ失敗しないためとこじつけの理由を自分に言い聞かせている。自己満足と非難されれば、返す言葉もない。
 更衣室の方から物音がして、俺はハッとしてそちらを見た。いつもなら俺のような物好きが二、三人居るのに、今日は俺一人だったので不気味なほどの静寂が少し居心地が悪かったところだ。
 名前も学年もわからない女子の姿が浮かぶ。このプールで時折顔を合わせるだけで、言葉も交わしたことはないが、綺麗な子だった。ボディラインがもろに出る競泳水着を着ても見劣りしないスタイルの良さを期待しながら、プールサイドにやってくる人物を待った。
「げっ」
 やがて現れた予想外の人物を見て、思わず口走ってしまった。それは海で会ったちぐはぐ男だった。
 相手も俺の呻き声でこちらに気づき、眉間に皺を寄せた。しかし、躊躇う素振りは見せたものの、そのまま何事もなかったようにストレッチを始めた。
 そうなっては俺もプールから上がるわけにはいかなかった。逃げたと思われるのは癪だった。
 俺は壁を蹴って泳ぎ出した。プールサイドの男は気になるが、意識しているのがばれたら負けだと思った。
 だがリズムを刻みながら遊泳を続けていると、乱れた気持ちが落ち着いてくると共に集中力が高まっていく。俺が泳ぐ時に一番気にかけているのは静かな泳ぎだ。クロールでは一掻きした後、水面に手を入れる時にどうしても音が立つ。しかし、手の進入角次第ではそれを限りなく抑えることができる。上手くいった時の水に手が吸い込まれる感触は快感だ。
 俺が一掻き一掻きその感触を確かめるように泳いでいると、突如ばしゃっという音を合図に水面が激しく乱れた。
 水中で頭を振って音の正体を探ると、真横からぬっと影が現れた。いつの間にプールに入ってきたのか、男が俺の横をすり抜けていったのだ。
 呼吸が乱れ、口から気泡が漏れる。少し水を飲んでしまった。
 壁に手をつくと同時にぶはっと息を吐き、次いでげほげほと咳きこんだ。
 なんなんだ、あいつは。詰まった喉を押さえながら、前をきっと睨む。しかし、ターンしたと思われた男は、隣のレーンでにやにやしながら俺を見ていた。
 俺は一瞬殴りかかりそうになったが、なんとか自制した。意図はどうあれ行為だけを見れば、こいつはただ泳いでいただけだ。むしろ、追い抜かれた程度で集中を切ってしまった自分に怒りを覚える。
「勝負だ」
 男がふっと真顔になって、顎をしゃくった。その先をずっと辿っていくと時計がある。あと二、三分で五時半を指そうとしていた。
「いいだろう」
 思いのほか低い男の声に少し驚きつつ、俺は挑発的に頷いた。
 泳いだばかりで荒い鼓動がもう少し休ませてくれと訴えている。胸を叩いて、それを却下した。疲れを負けた時の言い訳にするつもりはない。そもそも負けるつもりがないのだから当たり前だ。完膚なきまでに叩きのめし、屈辱を味わわせて俺の砂山を壊したことを謝罪をさせてやる。
 じれったくなるほど長い二十九分からの一分間を過ぎて、長針が三十分を指す。俺と男は同時にスタートした。
 ペース配分は念頭になかった。五十メートルのプールをひたすら全力で泳ぐ。フォームが崩れるのも意に介さず、がむしゃらに手を掻き、足が千切れるかと思うほど上下に動かした。
 ばちゃばちゃと水を叩き、視界の大半を泡が占める。おかげで男の位置を確認する余裕はなかった。ただ、前に居ないことだけはわかった。絶対に抜かれまいと、余計に力んだ。
 俺は壁に手をつき、水面から上がると同時に振り返った。男はちょうど背泳ぎ用に吊るされたフラッグの下を通過するところだった。
 勝負の結果は歴然だった。日頃から鍛えていて習慣的に水泳もしている俺と、競泳水着すら持ってない、締まってはいるが根本的に細い体の男。冷静になってみれば、どちらが速いかは事前に予想できた。
 それでも俺は嬉しくて、ガッツポーズを作った。それから嫌味の一つでも言ってやるために隣のレーンに寄って男のゴールを待った。しかし――
「えっ?」
 五十メートルを泳ぎ切った男は皮肉を口にしかけた俺の目の前で、思いがけずターンをした。予想外の出来事に呆然しているうちに再び遠のいていき、あっという間に、向こう岸まで辿り着いた。
 そのままプールサイドに上がった男は、口に手を当てて叫んだ。
「誰が五十メールだと言った」
 そして、風のようにプールから逃げ去った。
 男の言葉を借りるなら、誰が百メートルだと言ったんだ。少し距離が伸びたところで勝敗は揺るがない。それがわかっているからこそ、男は漫画の悪者のように捨て台詞を残して消えたのだろう。なんだか、どっと疲れが出た。
 俺は口まで水に浸かり、しばらく水をぶくぶくといわせていた。
「やっぱりガキだ」
 
 
 
 膝に電流が流れるような刺激を感じて、俺は思わず顔を顰めた。
 生々しい朱色に染まった患部に目を落とす。消毒液とガーゼを持った桃香と目が合った。
「小学生じゃないんだから、これくらいで痛がっちゃダメよ」
「痛がってませんよ。沁みただけです」
「それは私の消毒が下手だから?」
 桃香は明らかに面白がっている顔で尋ねる。それでも手が疎かにならないのは流石だった。
「そうかもしれませんね」
 俺は無愛想に答えて、窓の外に視線を投げる。太陽は今日も容赦なく地面を熱しているのに、わざわざ校舎外の木陰で昼食を囲んでいる女子のグループが居た。自分のお腹に手を当てる。できることなら、窓から出て行って食事に加わりたいところだ。
「はい、終わり」桃香はぽんぽんと手を叩いた。「じゃあ、なんで怪我した時の状況を教えてもらえるかしら?」
「二限の体育でサッカーしてたら、転んで擦りむきました」
 紙にペンを走らせていた桃香は振り返って、怪訝そうに眉を寄せた。
「三限はどうしたの?」
「そのうち痛みも引くと思って、普通に授業を受けてました」
「血が固まるのが早いと思ったのよ」桃香は大袈裟に溜息をつき、俺を睨んだ。「いい? 痛みが無くなればいいっていう問題じゃないの。怪我したらすぐに保健室に来る。それこそ小学生でもできるわよ」
「すいません」
 静かだが、有無を言わせぬ叱責に俺は思わず頭を下げてしまった。こういう一面を見ると、やはり桃香は養護教諭なのだなと納得する。彼女の女としての顔を覗き見しようとしている俺にはそれが新鮮だった。
「でも、ちょっと意外だわ」顔の緊張を解いた桃香はぽつりと呟いた。「寺岡くん、体育は手を抜くタイプだと思ってた」
「見た目で判断しないでください。俺は手を抜いたりしませんよ。でも、今回の怪我はむしゃくしゃしてたせいもありますね」
 俺は苦虫を噛み潰す。
 一つは、もう何度もこの保健室を訪ねているのに、まったく桃香との関係に進展がないこと。色々と探りを入れてみても、俺を拒んだ正確な理由は未だ掴めない。彼女と肉体関係を持ってる生徒を三人ほど特定したが、それでなにかが起こるというわけでもなかった。正直なところ、自分自身進展を望んでいるのかがわからなかった。踏み込んでみたい気もするし、恐ろしい気もする。
 しかし、桃香のこと以上に俺を悩ませている問題があった。
「わかった。例の彼でしょ」
「ええ。昨日はトレーニングルームで鉢合わせました」
 俺は頷いて肩を落とした。
 あのちぐはぐ男は俺の行く先々で現れた。始末が悪いことに、出会うといちいち俺に対抗心を燃やしてくるのだ。正直なところ、辟易していた。
 百歩譲って、最初に海岸で出会ったのは偶然とする。プール、挌技場、図書館なども同じ学校の生徒だからわかる。しかし、バイト先の焼肉屋にまで現れるとなると話は違う。偶然も重なれば必然、と語ったのは誰だっただろうか? とにかく、俺を尾行しているとしか思えなかった。
 だが、一概にストーカーと断言できないのが痛い。時には俺より先に目的地に居るからだ。それだけはどうにも不可解だった。
「もしかして、先生が俺の行く場所を教えてるんじゃないですか?」
 冗談混じりで訊ねた。話の流れで、桃香には俺の予定を言うことが多々あった。ちぐはぐ男が日常的に保健室に来ているならば、彼女の口から伝わってもおかしくはなかった。しかし――
「私になんのメリットがあるの?」
 俺が行き当たった論理の破綻を、桃香は微笑みを浮かべてあっさり指摘する。あの男が彼女になんらかの報酬を払っているならわかるが、男はいつも俺に気づいて驚いていたのでその線はない。
「次に会ったら一度話してみればいいんじゃないかしら?」
 頭を掻きながら思い悩んでいると、桃香が進言した。
「えっ?」
「その彼と、今までちゃんと会話したことないんでしょう」
 桃香の提案に俺は首を捻る。はたして、相手の方に話すつもりがあるだろうか? しかし、彼女の言い分は尤もだった。問い質してみるのが手っ取り早いのは確かだ。
「わかりました。そうしてみます」悩んだ末に顎を引いた。「でも、なんか面白がってません?」
「面白いに決まってるじゃないの」
 桃香は笑いを堪えるように答える。俺は呆れて嘆息した。
「仮にも教える立場の人間がそんなことでいいんですか?」
「あら、教師だって人間よ」
 平然と言ってのける桃香に俺は呆れた。
 雑談しているうちに昼休みの残り時間は刻々と減っていく。
「それじゃ、昼飯抜くと午後の授業が辛いんで、そろそろ帰ります」
「はい、お大事にね。傷口が化膿するようだったら、ちゃんと病院に行くのよ」
 桃香は消毒液などを棚にしまいながら、小さい子供に諭すように言う。
 保健室を辞そうと腰を上げた俺はしかし、桃香の言葉を聞いてなかった。俺の意識は彼女が開いた棚の隅でキラリと光った物体に捉われていた。
 なにかに急きたてられたように鼓動が一気にペースを上げた。目を凝らして、暗がりに無造作に置かれた物体をもう一度見る。間違いなかった。
 俺は知らず知らず震え始めた手でその輝きを放つ物体を指差した。
「それ、なんですか?」
「ああ、これ」
 桃香は無造作に手を伸ばし、それを引っ張り出した。俺は息を飲んだ。喉の鳴る音が酷く生々しく聞こえた。
 銀のアンクレット。
 掌にすっぽり収まってしまうほど小さいにも関わらず、それは圧倒的な存在感を放って見えた。ありふれたデザインのありふれたアンクレット。しかし、俺は誰がそれを購入し、誰にプレゼントしようとしていたのか知っている。
「誰かの落し物ね。サボリだったり元々体が弱かったり事情はまちまいだけど、保健室って常連の子が結構居るのよ。そのうちの誰かのものかと思って、ここで預かってたの。でも、いつまで経っても持ち主が現れないのよね。すっかり忘れてたけど、落とし物コーナーに移しとかなきゃいけないわね」
 一旦言葉を切った桃香は、俺の目の前にアンクレットを掲げる。
「もしかして、寺岡くんの知り合いのもの?」
 俺は反応に困り、どちらともつかない曖昧な返事をした。
 健が保健室に出入りしていた。正確には出入りしていたかどうかは定かではないが、少なくとも一度は来たということだ。
 思いも知らぬ事実にようやく理解が追いつくと同時に、脳裏で記憶が弾けた。そして記憶の欠片がジグソーパズルのピースのように組み合わさり、ある答えが浮かび上がってきた。
「いつ頃からありますか、その落とし物は?」
 俺は最後の確認のために桃香に聞いた。
「前年度だから、あなたが一年生の時の終り頃だったかしら」
「なるほど……」
 体の節々から沸々と笑いが湧き上がるのがわかった。やがてそれは笑いの奔流となって俺の体内で暴れた。
「そうかそうか、そういうことだったのか」
 とうとう我慢できなくなり、俺は声に出して笑い出した。すると、もはや笑い声は止められなかった。
 そもそも、桃香は誰から俺のことを聞いたのか? 俺の相談に乗ってあげてと頼まれていたらしいが、誰から頼まれたのか? 俺の側に「辛かったら保健室に行け」というお達しがなかった以上、学校側の配慮とは思えない。だとしたら、残る可能性は限られてくる。
 今思えば、手掛かりは提示されていた。
 ――やっぱり詳しいことは話せないの。
 俺が問い詰めた時、桃香はそう言った。「話したくない」ではなく「話せない」。まるで誰かに口止めされているかのような言い回し。
 そして、桃香は今でも俺を「寺岡くん」と呼ぶのにも関わらず、健のことは最初から「健くん」と呼んだ。
 また、俺が桃香と生徒の絡みを見たと偽った時もだ。最初は嘘がばれたと思ったが、彼女は俺が目撃した時期を気にしていただけだった。しかし、ねぜ重要とは思えない時期をことさら気にかけていたのか? それは、俺に知られては不味い人物が情事の相手が居たからではないか。最近と答えた際に表した彼女の心底安堵した表情。つまり、それ以前に居たのだ。
 更に芋蔓式に今気づいたことがある。桃香と肉体関係を持っている人間は共通して荒々しさと一歩間違えば壊れてしまいそうな危うさが見受けられた。その要素は健も持ち合わせていた。
 一つ一つの根拠は弱く、風が吹けば消えてしまいそうな理由だが、塵も積もれば山となる。
 それ等の理由から導き出される答えは一つ。
 健はこの保健室を訪れていた。そして、桃香と交わっていた。
 物的な証拠は何一つない。アンクレットにしたって別の誰かが持ち込んだのかもしれない。しかし、俺の直観は砂一粒ほども疑ってなかった。
 首を回し、物言わず佇むベッドを見やる。保健室から逃げる時に野獣のような男とすれ違って以来、汚らわしいイメージが付き纏っていた区域が、一転して神聖な場所に見えた。それはさながら空気の籠もった部屋に新鮮な風が吹き込むようだった。
 健は俺の過ちを許してくれた。激情に突き動かされて俺を殴ったが後からやりすぎたと思ったのか、あるいは殴ったことで帳消しにしてくれたのかはわからない。だが、桃香に俺のことを頼んだということはつまり、そういうことだろう。
 いや、ただ俺が信じたいだけなのかもしれない。自分に都合のいい解釈をして、罪から逃れたいだけだ。しかし、それでもよかった。嘘だって心の底から信じ込めば、真実になることだってある。昔は天動説が真実であったように。
「どうしたの? やっぱりこのアンクレットはなにかあるの?」
 俺が唐突に笑い出したので、桃香はおろおろしていた。
「ちょっとした思い出し笑いです」
「思い出し笑いって……」
 桃香は絶句した。その表情がまた愉快だった。彼女にはアンクレットの持ち主を教えるつもりはなかった。それを言って、桃香と健に関連がなかった場合のことを考えると怖かったのもある。だがそれ以上に、再び手に入れることができた健との繋がりを他の誰かに伝えたくなかった。
 これは俺と健の二人だけの秘密。嫌でも人を惹きつける言葉の響きに、柄にもなくときめいた。
 しかし、このときめきも桃香無くしては得られなかった想いだ。彼女は俺と健を結びつける糸だった。断たれてしまったら、もう二度と繋げることのできないたった一本の大事な糸。
「先生、すいませんでした。そして、本当にありがとうございました」
 脳裏に浮かんだ言葉がそのまま口をついて出た。本当に居てくれてよかった。
「なんの謝罪で、なんの感謝なの?」
 桃香は首を傾げ当惑した声を出した。
「色々ですよ、色々」
 笑って煙に巻くと俺は時計を見た。昼休みはちょうど折り返し地点に入ったところだった。久しく味わう幸福感で胸は一杯だったが、お腹の方は空っぽで今にも悲鳴を上げそうだ。
 桃香に挨拶を済まし、今度こそ退室しようと扉に手をかけると、まるで俺の意志を汲み取ったかのように扉がひとりでに開いた。
「先生、聞いてくれよ。昨日ジムでまたあいつに会っちゃっ――うぉっ!」
 愚痴を呟きながら入ってきた男は、眼前に佇む人影に上半身をのけぞって驚き、それが俺だとわかると目を丸くした。
 時間が止まった。
 脳細胞が活動を停止していた。一瞬前まで懐いていた喜びも全て吹き飛び、頭の中が真っ白になっていた。ちぐはぐ男もここまではおそらく同じ道筋をなぞっただろう。しかし、金縛りから解放された俺は「なぜこいつがここに?」と当然の疑問を懐いたのに対し、目の前の男は特撮ヒーローみたいに腰を少し落として両手を体の前で構えたポーズを取った。
「こ、ここで会ったが百年目っ!」
 相手も動揺していたのだろう。使い方の間違った突飛な台詞はしかし、見事なまでに俺の笑いのツボを鷲掴みした。俺は膝から崩れ落ち、しばらくお腹を抱えたまま蹲っていた。なにか言葉を発しようにも、それを押し退けて爆笑が口から零れる。
 やがて頭が落ち着きを取り戻し始めても、体は制御できなかった。数か月に及ぶ空白を肉体が必死に埋めようとしているかのように笑いが途切れることはなかった。しまいには息苦しくなり、涙まで出てきた。
 桃香とちぐはぐ男は突然笑い転げた俺を変な眼で見ているのではないか。ぼんやりと考えたところで、はっとした。その拍子に腹の底から突き上げるような笑いも引っ込んだ。
 なぜこの男がここに居るんだ?
 俺は胸に手を当てて呼吸を整えながら思案を巡らす。入ってきた時の口調からして初めて保健室を訪れた雰囲気ではなかった。それでは、なぜ桃香は俺にこいつのことを秘密にしていたのか?
 答えを求めて、桃香を見上げた。
 はたして、彼女は微笑んでいた。
 ああ、そうか。
 消化不良だったものがすとんとあるべき場所に収まった。
 確かに、俺とちぐはぐ男を引き合わせたところで桃香にはなんのメリットもない。しかし、教師とは本来自分の利益よりも生徒のことを第一に考えるものだ。ただ、実際に行動に移すのはとても難しい。現にそんな立派な教師に出会ったことがなかったために、俺は桃香がちぐはぐ男と引き合わせた可能性を真剣に疑わなかった。しかし、養護教諭という学校でも特殊な立場でありながら、桃香は尊敬に値する教師だった。
 あるいは、そんな自己犠牲も惜しまない姿勢が、悲劇的にも彼女を複数の生徒とのインモラルな関係に陥れたのかもしれない。
 だが、俺にはもう関係ないことだ。今になって桃香の言っていた「あなたは引き返せる」の意味がなんとなく理解できた。説明しろと言われても難しいが、とりあえず俺にはまだなにかが足りないのだ。あるいは逆に余分なものを持っているのかもしれない。
「おい、さっきからなにがおかしいんだよ」
 肩を強く掴まれて、俺は我に返った。ちぐはぐ男に向き直る。憮然とした面持ちだったが、改めてまじまじと観察すると愛嬌のある顔と言えないこともなかった。
 最高の出会いをした健とは、俺の失敗が原因で引き裂かれてしまった。
 最悪の出会いをしたこの男とは、どんな結末が待ち受けているだろうか?
 桃香の策略に乗せられるのは癪だが、悔しいことに俺はその案に魅力を感じている。無理に抗う術はなかった。
 俺は横目で桃香を見やり、それからできる限り友好的な笑みを浮かべる。
「お前、チャック開いてるぞ?」
 
 

終わり


あとがき

Rhapsody In Blue