替え玉シチューは失敗ばかり
著者 黒島 宮城
 
 てらてらと蛍光灯の光を反射して光るサラダ油が、落ち葉のようにゆっくりと音も立てずに鍋の底に落ちる。落ちた一点からさーっと、円形に広がっていく。
「これっくらいかな」
 傾けていたサラダ油の容器を元に戻し、キャップをつけて棚にしまった。
 続いて、あらかじめ一口大に切っておいた鳥の腿肉を皿から鍋に手で掻きこむ。下準備の段階で、この鶏肉にはハーブソルトと胡椒が揉みこんである。ハーブソルトは最高且つ万能の調味料だ。困った時はこれに頼れば、失敗はない。
 じゅわっ。食欲をそそる音と共に油が小さく跳ねた。木へらで掻き混ぜてやると、鍋の底で肉はころころ転がった。
 中まで火が通ったところで、野菜の出番だ。まな板に山を作っている、適当な大きさに切ったにんじん、じゃがいも、たまねぎを包丁で丁寧に鍋に落としていく。マッシュルームがないのはあたしが嫌いだから。スーパーマリオに出てきそうなきのこなんて、虚構の中だけで十分だ。現実からは消えてしまえばいい。
 木へらで野菜と肉を下から持ち上げるように掻き混ぜる。満員電車のように込み合った鍋の中で食材たちは盛大に踊った。あたしも加わりたいくらいだが、熱い上に狭いので遠慮しておこう。なんだかんだ言ってるうちにたまねぎが焦げ始める一歩手前までになってしまったので、慌てて計量カップで計りながら水を適量入れる。うるさかった野菜たちが水を掛けられて我に返ったように静かになった。
 いつの間にか鼻歌が漏れている。あたしオリジナルのメロディだ。鼻歌専用だから、当然歌詞はない。
 流れる旋律を歌いながら、調味料の棚から固形ブイヨンを取り出して小さく砕いて、香草のローリエと一緒に投入した。これで沸騰するまでの間にホワイトソースを作るだけだ。
 しかし、なぜあたしは今日という日にクリームシチューなんぞ作っているのだろう。本来なら、鍋に溜まっているのは白ではなく、甘ったるい匂いを漂わせる黒や茶色の液体のはずなのに。
 これもそれも、秀介のせいだ。
「今年の二月十四日はチョコいらないからな」
 一ヶ月前も彼は先手を打った。
 おかげで、今年は友達と後輩の女の子にしか渡せなかった。あたしの記憶が正しければバレンタインデーというのは女が男にチョコを渡すイベントのはずだ。どう考えても今の状況はおかしい。まあ、男には本命以外渡さないという学生時代のポリシーを引きずっているあたしにも少しは非があるのだけれど。
 でも、それにしたって秀介は酷い。彼は、あたし以外の女からは毎年幾つも貰ってくるのだ。しかもそれ等が本命チョコとなれば尚更である。
「これは、こんなにもてる奴と付き合ってる妃香帆が相当な女だという証明でもあるんだぞ」
 不満を訴えると、意地の悪い笑みを浮かべてそう言うのだから困る。まったく、変な時だけ口達者な奴である。しかし、少し格好いいからといって、なぜ本人ではなく付き合っているあたしが嫉妬のとばっちりを受けなくてはいけないのだろう。納得できない。
 自分の不遇を嘆いている間に、鍋の水面にぼこぼこと泡が沸き始めた。あたしの傍らで待機していたバターや小麦粉、牛乳などの食材は原形を留めたままで、ホワイトソースは陰も形もない。
 僅かばかりの逡巡と沈黙。優秀なあたしの脳細胞はすぐに答えを導き出し、ついでに不必要な記憶を抹消した。
 明日は休日だし、目の前にあるどこから湧いたのかわからない食材で久々にケーキでも作ろう。あたしは自分の名案に何度も頷き、計ってあったバターなどを冷蔵庫にしまった。
 秀介もきっと手を抜いた手作りソースよりも愛情たっぷりの固形ルウの方が嬉しいだろう。あたしは引き出しから取り出したクリームシチューの箱を見ながらまた頷いた。
 一通りおたまでアクを除いてから、べたつくルウを割って放り込んだ。溶かして掻き混ぜると、シチューの原形はみるみるうちに白みを帯びていき、やがてクリームシチューとなった。
 後は定期的に掻き混ぜながら弱火で秀介が帰ってくるまでずうっと煮込む。あたしは具が溶けてしまっているぐらいが一番好きなのだ。凝縮されたスープが舌に絡めた瞬間に全ての具材の味を一気に解き放つ、あの感じは病みつきになってしまった。だから食べるのは二人なのに、クリームシチューはわざわざ四人前の量を作ってある。煮込んで減ってしまっても大丈夫なように。
 元を正せば、これは秀介の好みだった。あたしはいつの間にか彼に影響されてしまった。それはいささか不本意だけど、当然と言えば当然の結果だ。
 我が家の料理は調理師免許を持つ秀介に一任されているからである。もっと正確に言えば、修行と称してあたしが彼に押し付けている。それゆえに、今日は久々の料理だったので妙に疲れてしまった。一箇所に立って作業するのは結構な労働だ。
 あたしは一度シチューを掻き混ぜてから、あまり大きくないソファーに腰を下ろした。時計を見上げると、秀介が帰ってくる時間はまだ一時間ほど先だった。ちょうどニュースの時間帯であり、どのテレビ局でもさして代わり映えのしない報道ばかりしていたので、テレビをつけてみたがすぐに消した。
 特にやることもなく暇を持て余し、宙ぶらりんな状態だった。
 子供のいない専業主婦はこんな時間を毎日過ごしているのだろうか。頭に浮かんできたその思いを糸口にあたしはこれからについて考える。
 秀介はもうすぐアルバイトしているイタリア料理の店で正社員として迎えられるらしい。そうしたら結婚しようと彼は言ってくれているけど、その時あたしはどうしよう。今やっているバイトは止めて専業主婦になるのだろうか。でも、今のご時世秀介の収入だけでやっていけるとも思えなかった。それに結婚するだけでも色々と問題が付き纏う。
 未来のことを考えるとどんどん憂鬱な気分になり、その重い気持ちのせいで体がソファーに埋まっていくようだった。 そしていつしかシチューを掻き混ぜるのを忘れていた。慌ててキッチンに戻り掻き混ぜたが、底の方が少し焦げついていた。
 深い溜め息が漏れる。なんだか、なにをやっても上手く行かない。
「せっかくのバレンタインなのに……」
 自分の無意識の呟きではたと思い出した。そういえば、今日はバレンタインだったっけ。短い間にすっかり忘却していたことに自嘲的に笑う。
「今日は悪く考えるのはやめなさい、妃香帆」
 あたしは叱咤の意味で、自分の両頬を叩き、無理矢理笑みを作った。嘘でも笑顔を浮かべていればいつか本物の笑顔になる、と言ったのは誰だったろうか。誰であれ、なかなか良いことを言う。
「そうだ!」
 加減を間違えて、予想以上の痛みのある頬を摩っていたあたしは妙案を思いついた。秀介はチョコ単体は嫌がるかもしれないが、シチューにチョコを入れてしまえばわからないではないか。カレーには隠し味でチョコを入れるとも言うし、シチューに入れても大丈夫だろう。
 思い立ったが吉日。あたしは冷蔵庫を開いて、自分用のお菓子として買っておいた板チョコを取り出した。都合のいいことにホワイトチョコだった。銀紙を剥がして、半分を砕きながら鍋に放り込み、残りの半分をあたしの口に放り込む。日本では美徳とされている遠慮は、これっぽっちもない甘ったるさだった。さすがは外国産、加減がなってない。しかし、あたしはこの味が嫌いではなかった。
 チョコを食べたクリームシチューは、満足そうにぐつぐつと、まるで機嫌のいい猫みたいに鳴いていた。そのシチューの毛並みを揃えるように何度かおたまで掻き混ぜているうちに時間は過ぎていった。
 
 
「妃香帆の料理は久しぶりだなー」
 ソファーに腰を埋めて感慨深げに呟いている秀介の前に置いてある、膝丈のテーブルにクリームシチューとご飯、おかずを運ぶ。秀介の帰りが遅れたおかげで、具はすっかり溶けてしまった。残っているのは小石サイズまで削られたじゃがいもと元はにんじんだった赤い粒だけだ。
「おお、美味そうじゃん」
「かなり煮込んだからね。お肉もだいぶ小さくなっちゃった」
 あたしは自分の分も運び、秀介に向かいあって座った。
「で、今年は一体何人の方から何個頂いたのかしら?」
 精一杯の皮肉を込め、それでいてその裏の僻みが露見しないように心掛けた。
 秀介はお気に入りのバッグを掴み、逆さにして振った。可愛らしいの包装のなされたチョコがばらばらと落ちてくる。
「一、二、三……九個だな。今年は二桁行かなかった」
 残念そうに言い、あたしの顔を興味津々とばかりに覗きこんでくる。彼の行動は予想していたので、わざわざ喜ばせるような過敏な反応はしない。
「これ食べるの?」
「まさか! 一番好きな奴には作るな、て言っておいて他の奴から貰った物を食うはずがないだろ。貰うまでは礼儀だが、食ってやる義理はねえ」
「ふーん」
 淡白に応じたが、あたしは内心舞い上がっていた。秀介がチョコを食べないと断言したことよりも、「一番好きな奴」があたしであることに。秀介が他の女に持てはやされるので、時々不安になってしまうのだ。あたしは本当に彼の一番なのだろうか、実は本命の彼女が別にいて自分は遊ばれているだけなのではないか。
 もちろん、秀介はそんなことする人間ではないと信じているけれど、男はより多くの女性に興味を持つように本能に刻まれているので、安心はできないのだ。だからこそ、ベッドの中以外でも時折言ってくれる愛の言葉が身に染みる。あたしは睦月秀介の彼女であることに再び自信を持てる。
「じゃあ、捨てるの勿体無いしこれあたしが食べていい?」
「ああ、いいぞ。俺からのプレゼントだ」秀介はスプーンを手に取る。「で、俺も食っていいか?」
「たんと召し上がれ」
 許可を出すと、秀介はいただきますを言って早速クリームシチューを食べ始めた。
「なかなか美味いじゃないか」
「なかなかは余計。素直に美味いって言いなさい」
 あたしもシチューに手をつけようとしたが、これだけの数のチョコを前にシチューを優先させるのは甘党としてのプライドが許さなかった。
 一つだけと思い、一番シンプルな自作と思しき包装のチョコを取る。あたしはリボンを解いた後、それをわざと汚く破り取った。ささやかな憂さ晴らしだ。せっかく苦労して包んだものを無惨に切り刻んでやることで、秀介に向けた想いも切り刻む。丹念に作ったチョコが彼の口に入ることなくあたしに食べられていると知ったら、製作者はどんな顔をするだろう。その様子を思い浮かべると若干気分が晴れる。
 包装の下には中身のトリュフチョコが見える透明な箱と、折り畳んだカードが入っていた。あたしは秀介に見えないようテーブルの下でカードを開く。それは秀介のバイト仲間の女の子からの物だった。長々とした文章の最後に気に入らない一文を見つける。
『今の彼女に飽きたら私に声を掛けてね、なんちゃって』
 ふざけて書いてあるが、同姓の目から見ればアピールであることは明白だった。
 やれやれ、人の彼氏を横取りしようとはいい度胸ではないか。前々から怪しいとは思っていたが、これで完全に敵と見なした。あたしに見つかってしまったのが運の尽きだ。そのうち後悔させてやる。
 あたしは本人の知らないところで宣戦布告し、彼女の手作りチョコを噛み砕いた。形といい味といい料理の腕自体は悪くなかった。
「妃香帆、食べないのか?」
 バラエティ番組を見ながら、黙々と食べていた秀介が口をもぐもぐさせながらあたしのシチューを物欲しげに眺めていた。秀介は子供のように少しでも多くの料理を口に含み、子供のように美味しそうに食べる。彼の最も愛しい姿だ。
 あたしは手の中のカードを握り潰し、微笑んだ。
「食べるわよ。秀介はまだ自分の分が残ってるでしょ。おかわりはちゃんと残ってるからもっとゆっくり食べなさい」
「お前、母親みたいだな」
「褒め言葉として受け取っとくわ」
「そうしてくれ」
 秀介は残り少なくなったクリームシチューの食器を持ち上げ、口元まで持っていき、スプーンでかきこむ。その途中、呻き声をあげた。
「どうしたの?」
 驚いて尋ねたが、秀介は返事を返さずにそのまま口にかきこむ作業を再開した。そして、平らげてから神妙な顔であたしを見つめた。
「妃香帆、一つ言っておきたい」
「な、何?」
 秀介がいつにない真剣な表情をしているので、どもってしまった。
「クリームシチューは美味しかった。でも詰めが甘い。料理は最後まで気を抜いちゃいけないぞ」
 そう言って、秀介は食器をあたしに見せる。
「あ」
 あたしは頓狂な声をあげてうな垂れた。秀介はニヤニヤと笑い、勝ち誇ったように唇を吊り上げる。
「今度からローリエはちゃんと抜いておこうな」
 今年のバレンタインは結局なにをやっても上手くいかなかった。


あとがき

Rhapsody In Blue