お父さん
著者 黒島 宮城
 
 最後にそう呼んだのはいつだろうか。
 お父さん、と。
 
 小さい頃はいつもべたべたと付いて回っていたのに、いつ頃からか距離が生じて、次第に遠のいていった。いや、あたしがお父さんから離れたんだ。友達が、
「最近、うちの父親うざいんだよね」
「うちもー。グチグチ説教しちゃってさ。しかも下向いて言うんだよね。自分の娘と目を合わせる勇気もないのかよ、って感じ」
 と、一人ずつ自分の父親を貶していく中で、適当に話を合わせて「うざいよねー」と言っていたら、いつの間にか本当に鬱陶しい存在になっていた。お父さんは仕事が忙しいので、休日以外顔を合わせる機会が少なかったのも拍車を掛けていたのかもしれない。
 最初のうちは罪悪感も感じていたけれど、その感情が麻痺するのに時間は大した時間は必要なく、気づけばその存在をできる限り避けていた。運悪く会ってしまった時、お父さんは変わりなく挨拶をかけてきたけど、あたしはそれを無視した。
 あからさまな拒絶にお母さんはあたしを嗜めたけど、そのことでお母さんとの関係まで気まずくなり始めていた。
 一回、家出でもしてやろうかと、そんなことを思っていた時だった。
 クラスの男の子に告白された。目立たなくて陰気なイメージしかなかったその男の子――水内光(みずうちひかる)君はあたしのタイプとは真逆の性格だったのであたしはオブラートに包むことなく「ごめんなさい。水内君と恋人なんて考えられないから」と断った。
 後から思えば、その発言は不味かった。水内君はいかにも傷つきやすそうで、またその外見通りすごく傷つきやすかったのだ。せめて歯に衣を着せてやんわり断ってやるべきだった。 
 後悔先に立たずというやつだ。
 その日から、あたしは水内君にストーキングされるようになった。彼は隠れようともせずに、堂々とあたしを付け回した。
 当初のあたしはそれを鼻で笑った。彼は貧弱な体型だったし、あたしは小学生の頃に空手をやっていたので力勝負でも負けない自信があった。しかし、ストーキングの本当の怖さとは精神的な攻撃であることをあたしは知らなかった。
 定番のごとく、家に無言電話を掛けてきて、さらにはどこかからあたしの携帯番号を入手してそれを繰り返し行った。塵も積もれば山となるとはよく言ったのもで、あたしの心は削られていった。それは病魔だった。内側からじわじわと嬲るように攻められる。とても辛かった。
 段々肉体的にも支障が出始め、いつしか目の下には濃い隈ができあがっていた。
 そんな時、お父さんがあたしの部屋の扉を叩いた。温和なお父さんにしては珍しいやや乱暴なノックだった。そしてあたしが返事をする前に扉は開いた。
「勝手に入らないでよ!」
 その時点でまったく余裕のなくなっていたあたしはお父さんに怒りをぶつけた。しかし、お父さんは八つ当たりを軽く受け流し、あたしの手首を痛みを覚えるほど強く握った。
「ちょっ、ちょっと痛いじゃない!」
「里佳。なにがあったんだ?」
 お父さんは力を緩めずにあたしに迫る。
「離して! なんにもないわよ、あんたには関係ないでしょ!」
 あたしは空いていた左手で加減もせずにビンタした。しかし、赤くなった頬を気にする素振りもなく、お父さんは静かに言った。
「関係、ある」
「ないわよ!」
「いや、ある。心配している」
「ないって言ってるでしょ! 誰も心配してなんて頼んでないでしょ!」
 ヒステリックに叫んで暴れると、お父さんはすぐにあたしの手を離した。その代わり、肩を掴まれた。
 
 
「頼むとか頼まないとか、関係ない! 愛娘が体調壊すほど悩んでいるのを親として見過ごせるか!」
 
 
 その言葉は心の奥で眠っていた幼き日の感情を叩き起こした。気づけば、あたしは涙を流していた。子供みたいに情けなく見苦しく、泣きじゃくっていた。あたしはずいぶん前から誰かに助けを求めていたのだ。でも、警察は取り合ってくれないし友達を巻き込むわけにもいかない。だから、頼るのは家族しか居なかったのに、今までのことがあったから素直に頼れなかったんだ。
 お父さんはなにも言わず、懐にあたしを導いてくれた。そして盛大に泣かせてくれた。一時間にも及んだ、その会話のない時間は今まで失っていた時間を取り戻してくれた。
 やがて泣き終え、涙を拭って、お父さんを見上げる。目が合うと、あたしは少し照れてから笑った。
 
 
 水内君はお父さんに説得されると、なんだったのかと拍子抜けしてしまうほど簡単にストーキングをやめた。気味が悪くて強く言えなかったのが悔やまれる。今からでも何発か殴って、吐き捨ててやろうかと思ったが、さすがに可哀想なのでやめた。それに水内君がくれたのは不幸ばかりではない。
 
「おとうーさん」
「ん? なんだい里佳」
「ううん、ただ呼んでみただけ」


あとがき
拝読ありがとうございます。
これは締め切りギリギリで書き上げた作品です。締め切りって本当に怖ろしいです。精神的に追い詰められますorz

Rhapsody In Blue