純粋なマリオネット
著者 黒島 宮城
 
 ぼくが泣く時、ぼくの目にはいつもママの背中が映っている。
 日曜日になると、包み込むような笑顔でぼくの頭を愛しげに撫でると、ママはいつもぼくを家に残したまま出かけてしまう。それがとても悲しくて、お腹が減っても怪我をしても泣かないぼくは泣く。
 なにより悲しいのは、出かけるママの背中は嬉しそうに笑っていることだ。ぼくは知っている。背中越しのママはぼくには決して見せない顔をしていることを。それがどんな意味なのかは、まだわからないけれどなんとなく嫉妬してしまう。
 友達のたっくんやよっちゃんのママよりも全然若くて、比べるのが勿体無いほど美人なママ。とっても優しくて格好良い、大好きなママ。行かないで! あの男の人のところに行かないで、ぼくの傍に居て。ママさえ居てくれれば、それ以外に何も望まないから!
 でも、ぼくは喉元まででかかった言葉を飲み込む。自慢じゃないけど、いや、これは自慢だ。ぼくはママを困らせたことは一度たりともない。ぼくはとてもいい子なんだ。パパが居ないからママが働いているけど、ぼくは保育園には行っていない。ぼくはいい子だから家に一人で居ても大丈夫なんだと、ママは言っていた。だからいい子のぼくは、あの佐々木さんとかいう男の人のところへ行くママを、笑顔の仮面で覆い隠して見送るんだ。
「いってらっしゃい、ママ……」
「ん、行ってきます。いい子でお留守番しているのよ」
 ぼくに向かってそう言ったけど、ママの目はぼくを見ていなかった。
 玄関の扉が閉まる直前、朝日に包まれたママの背中を目に焼き付けながらぼくは泣き始める。そして閉められた無機質な扉をじっと見て、そこにママの背中を映して泣く。
 ママ。ママ……。呟くのはその二文字だけ。一時間ぐらいずっと、やけに冷たい床で膝を抱えて泣きじゃくり、溜まった涙が出尽くしたところで、ぼくはようやく留守番を開始する。やることはたくさんある。ママが帰って来た時にたくさん褒めてもらえるように、ぼくがやれることは全てやらなくちゃいけない。まずは椅子をキッチンまで引きずってきて、その上に乗り、朝食のお皿洗い。ママの温もりがほのかに残っている椅子の上での作業はとても楽しい。全ての食器をママの肌のようにすべすべにしてから、次はお掃除だ。
 ママが朝食の傍らで読んでいた本を元にあった場所へ――その前に、ママがどんな本を読んでいるのか気になったので、めくってみる。難しい漢字がたくさん使ってあったので、文字は読めなかった。だから絵だけを目で追っていくと、男の人と女の人が出て来て、口喧嘩していたと思ったら、なんか女の人が泣き始める。男の人に抱きついて、どこかのホテルに行って、二人が裸で肌を擦り合わせていた。
 よくわからない。こんなのよりアンパンマンの方が全然面白いのに、なんでママはこんなの読むんだろう。もしかして、この本がママがあんなに綺麗でいる秘密なのかな? それならぼくにわからなくて当然かもしれない。
 それよりも、ちゃんと掃除しなくちゃいけない。一通り物を片付けたら、物置部屋から掃除機を引きずり出してくる。お尻から線を伸ばし、ぴったりはまる穴に設置してスイッチオン。ぼくは掃除機がとても好きだ。特にこの、ぶおー! ていう盛大な音が好き。ママはうるさいと嫌っているけど、それでもぼくは好きだ。だって、ママが居なくて静かで寂しい家一杯に音を満たしてくれるんだもん。
 全部の部屋に掃除機をかけ終わるとお昼になっている。ぼくは体が小さいから、ママのように手際よくできなくて、一つ一つのことに時間がかかってしまう。早く大きくなりたいな。そう思いながらママが作っておいてくれたチャーハンを温めて食べる。醤油味のそれは美味しい上に、ママがぼくのためだけに作ってくれたという事実が美味しさを何倍にもさせる。十分もしないうちに一気に食べ終えてしまった。
 満腹になったぼくは、お腹を慣らすのも兼ねて、休憩がてらに考え事をする。
 特に意図があったわけではないけれど、頭に浮かんで来たのはやっぱり佐々木さんだ。ロボットのように大きくて硬い体とは対称的な、迫力のない優しげな顔。ぼくからママを奪う佐々木さんを好きになることは絶対にできないけれど、正直、嫌いにもなりきれない。佐々木さんを顕著に表しているのは、圧迫感のある体じゃなくてテレビに出てくるタレントさんのような素敵な笑顔の方なんだ。
 一度家に来た時には、ぼくのために紙袋一杯のお菓子を持ってきてくれた。物で釣ろうとしているのかと疑ったけれど、ぼくが喜んでみせると佐々木さんは自分のことのように喜んでくれた。そこに嘘はなかった。あれ以来、ぼくは迷っている。佐々木さんがママを奪わなければ、好きになれるのに……。いや、やっぱりダメだ。佐々木さんはぼくの敵なんだ。気を許しちゃいけない。でも――
 難しい考え事をしているうちに、ぼくの頭の中はぐちゃぐちゃになってしまう。せっかく誤魔化していたママの居ない寂しさが再び蘇って迫ってくる。
 唯一の動物であるぼくが動かないために物音一つしない部屋はとても広く感じられて、なんだか天井から誰かに見られているような気分だ。
「ママ、気が参りそうだよ。早く帰ってきて」
 ぼくはぐずりながら呟いた。だけど、ママにその言葉が届くはずはない。仕方なく寂しさを紛らわすために、ぼくはお茶を持ってふかふかのソファに座り、テレビをつけた。ぼくが生まれるより前から使われていたテレビはブン……、と音を立ててから時間差があって映像を映し出す。
 ニュース番組だったので、ぼくは面白そうな番組にチャンネルを変えようとした。
「あっ!」
 一旦変えてしまったチャンネルをニュースに戻す。
『続いてのニュースです。家事手伝いの相原美那子さんなど、計六人の被害者を出している名古屋市の連続殺人事件で、犯人と見られている相原美那子さんの元恋人、住所不定二十八歳――田中幸三容疑者は依然警察の目をかいくぐり逃走を続けています』
 真面目そうな服装ではきはきと喋る女の人の横、ちょうど目線の位置に、若い垂れ目の男の人が映っている。最近、急に有名になった人だ。こんなに短い間に有名になれるなんて、よっぽど面白いギャグを持っているんだろう。最近の芸人さんはとても面白い。早くこの田中さんのギャグを見てみたいのだけれど、ぼくは一度も見られたことがない。
『九月二十五日に始まった事件は未だ犯人の消息が掴めぬまま、一ヶ月が過ぎ、一昨日とうとう六人目の被害者をだしてしまいました。未だ犯人が捕らないことに付近の住民は警察に対して不満を募らせています。世間を震撼させている残虐なこの事件について今日は専門家を交えて徹底検証しま――』
 田中さんの写真が消えてしまったので、興味のなくなったぼくはチャンネルを変えた。だけど、バラエティー番組の時間帯はもう終わっていた。今は、凛々しい男の人を化粧の濃い派手な格好した女の人と年老いたおばあさんが挟んで言い争っている変な番組がやっている。派手な格好した若い女の人がビンタされてて痛そうなだけで、全然面白くなかった。
 それからぼくは、また椅子を引きずってチャーハンのお皿を洗う。水が流し台を叩く音は、ひっそりとした家の中では不気味に響いた。
 洗う枚数が少ないので、朝よりも早く終わる。さて、そろそろお昼寝の時間だ。体の中の時計がタイミングを見計らったように鳴り、体内に眠気を生み出してぼくを眠くさせる。眠気眼を擦りながら、ママの笑顔のように明るい日差しに照らされたところまでタオルケットを持って行き、日差しを吸収したふかふかの絨毯の上に寝っ転がって、タオルケットを被る。
 十秒もしないうちに、夢の中に現れたママに誘われてぼくは眠りについた。
 
 
 目覚めはあんまり気分が良くなかった。ぼくは目覚めはいい方だけど、さすがに自分の意志と関係なく起こされては気分が上がってこない。それでも、起こしたのがママならぼくは笑顔で目覚めることができるけど、生憎ぼくを起こしたのは、くどいインターホンの音だった。
 まだ覚醒していない体を引きずって玄関まで歩いていく。その間も、インターホンは鳴り続けていてぼくは耳を塞いでいた。
「はーい。誰ですか?」
「こんにちはー、宅急便です」
 玄関に辿り着いたぼくは、しかし疑いもなく鍵を開けたりはしない。いつもママから知らない人が来ても開けてはいけないと言われているからだ。ママの言いつけは絶対。でも覗き窓ははるか頭上で使えない。だからぼくはその代わりに、玄関ポストを開けて見上げる。
 ドア越しに立っている人の服装は宅急便の人ではなかった。明らかに怪しい。だけどその顔を見た瞬間、ぼくは鍵を開けた。そしてドアがこちら側に開くと、ぼくは玄関の前に居たその人に飛びついた。
「な、なんだガキか。びっくりしたじゃねえか」
「うわー、本物だ! 本物だー!」
 ぼくがお腹のあたりをぺたぺたと触ると、田中さんはたじろいだ。
「おい坊主、お前勘違いしてないか。俺が誰かわかってんのか?」
「田中さんでしょ。田中こーぞーさん」
 引き剥がされたぼくは田中さんを見上げた。ぼさぼさした髪に、厚めの唇。それになんといってもこの垂れ目。間違いない、この人は田中さんだ! 有名人に会うのは初めてなので、ぼくは興奮していた。
 でもなんで家に来たんだろう。テレビカメラもないみたいだから、番組ではないみたいだし……もしかしてドッキリ企画? ぼくが田中さんに会いたがっているのは知っていたママがどこかの番組に応募してくれたのかな?
「わかってるなら、そういう反応にはならないはずなんだが……」田中さんは頬を掻いた。「まあいいや、お前の美人な母親は居ないのか?」
「えっ? 田中さんはママと知り合いなの?」
 ぼくは驚いてから、複雑な気持ちになった。ちぇっ。ママも酷いな。知り合いなら紹介してくれればいいのに。
「知り合ってはいないな。俺が一方的に知っているだけだ。だが……、そうか、お前のママもニュースで俺のことは知っているだろうな」
「ママは田中さんが知っているほどの有名人なの?」
「いや、ちょっと前から目をつけていただけで……って、俺はなに真面目に答えてんだよ」
 田中さんは自分の頬を叩いた。これが本物の芸人さんのノリツッコミ≠ゥ。ぼくは感慨深い気持ちになる。
「くそ、最近酷い扱いばかり受けていたからこういう反応されると調子狂うな」
 田中さんは苦い顔でぶつぶつと呟いている。ぼくはなにか不味いことを言ってしまったのだろうか。そこで思い至った。そういえば昨日テレビで、玄関で人を待たせるてはいけない、って言っていた。
「気がつかなくてごめんなさい。家に入りますか? ママは夜ご飯の時間には帰ってくるから、それまで待ってていいよ」
「おいおい、マジかよ。願ってもない提案だが、坊主、お前はそれでいいのか? 俺は殺人鬼だぞ」
「殺人鬼? ああ、コントの名前だね。田中さんはどんなコントをするの?」
 ぼくが尋ねると、田中さんはようやく合点がいったとばかりに手を叩く。笑顔でぼくを見下ろした。
「なるほど、お前はおれを芸人だと思っているのか」
「違うの?」
 ぼくは不安になって訊くと、田中さんは尻すぼみの声で言った。
「いやいや、芸人ではある。俺は普通の奴にはできない芸があるからな。ただ……、お笑い芸人ではないだけだ」
 最後の方が聞こえなくて首を傾げたぼくに、田中さんは「気にするな」と含み笑いで答えた。
 
 
 
 田中さんをリビングまで通し、ぼくは、朝ママが沸かしたあと常温で冷ましたお茶――二人分に氷を落として、大人の膝丈程度のテーブルに置いた。田中さんは喉が渇いていたらしく、一口で飲み干してしまった。寝起きのぼくもそれは同じだった。だから、今テーブルで水面に波紋を生じさせているお茶は二杯目だ。
 田中さんは先程のぼくの寝床で、タオルケットを膝掛け代わりにして胡坐をかいている。ぼくは田中さんに向かいあってソファに座り、体を乗り出している。
「ねえねえ、田中さんはどんな芸をするの? 殺人鬼ってどういうコントなの? やって見せて」
「やって見せてと言われてもな。ここに居るのは俺とお前の二人だけだから、必然的にお前が犠牲者になるぞ。あー、それだと『見せる』ことにはならないか。それに、ポリシーにも反するから――」
「言ってることがよくわからないよ」
「すまんすまん、こっちの話だから気にするな。しかしどう言ったものか……」
 田中さんはしばらくぼくの存在を無視してぶつぶつ呟いてから、拳を握った右手を開いた左手に打ちつけた。なにかを閃いたらしい。田中さんはぼくの頭に大きな掌を乗せて髪の毛をくしゃくしゃにした。
「坊主、残念だが俺は芸を安売りしないことにしてるんだよ。だから諦めてくれ」
「う、うん。わかった」
 納得していなかったけど、ぼくはいい子なので引き下がった。
 田中さんは繕うような笑顔を浮かべた。
「代わりといっちゃなんだが、悩みごとがあったら聞いてやるぞ。最近のガキはませてるから、お前も好きな女の子が一人二人いるんじゃねえか? 俺が解決してやるから言ってみろ」
「ぼくが好きなのはママだけだよ」
 ぶっきらぼうにそれだけ答えてお茶を一口飲んだ。ぼくは田中さんの唐突な質問に、つい正直な反応を返してしまった。なんだか試されたような気がしたんだ。本当にママのことが好きなのか、別によっちゃんや他の女の子でもいいのではないか。そう訊かれたような気がしたんだ。いまさら確認する必要もない。ぼくは誰よりもママが好きだ。
 気づくと、田中さんがぼくの顔を不思議そうに覗きこんでいた。慌てて不機嫌な顔を繕おうとしたけど、もう遅かった。
「そこまでムキになるにはなにかありそうだな。話してみろよ」
「ううん、なにもないよ」
「いや、あるね」
 必死に誤魔化そうとするぼくに、田中さんは間髪入れずに断言した。ぼくは口ごもってしまう。手が空いているのが妙に不安になったのでコップを手にとった。喉は渇いていたけど、口はつけなかった。
「田中さんには……関係ない、よ」
 無理矢理言葉をひねりだしても裏目にしかならない。
「関係ないってことは、やっぱりなにかあるんだな」
 自分が子供であることを痛感させられる。ママも含めた大人は、どれだけぼくが頑丈な壁を作って秘密を守っても、まるで、元々そこにはなにもなかったかのように、壁を壊して秘密に手を掛けてしまう。
「……わかったよ」
 観念したぼくは、田中さんに全てを話した。ぼくとママのこと、ママと佐々木さんのこと、そしてぼくが佐々木さんを憎みきれないこと。田中さんは真剣な表情で聞き入って、時々頷いたり、唸り声を上げたりしていた。ぼくは話をしていくうちにあらためてママが傍に居ないことを感じ、落ち込んでしまった。
 話し終えると、田中さんの切なげな瞳がぼくを見下ろした。
「お前は、本当に偉い奴だな。その歳で自発的に家事をする子供なんて滅多に居ないぞ。俺なんか二十八にもなって掃除なんて数えるほどしかしたことないんだぜ。ちょっと尊敬するわ」
「やめてよ」
 ママ以外の人でも、褒められると嬉しい。照れ隠しにコップの麦茶を呷った。砂漠化していた喉が潤って、ずいぶん気が楽になる。
「しかし、お前は本当に母親が好きなんだな」
 田中さんは腕を組んだ。どうやら田中さんには考えごとをする時にそれを声にする癖があるらしい。聞こえるか聞こえないかという声量で呟き始めた。
「困ったな、こいつから母親を奪うのは気の毒だ。それに、母親殺したらこいつは一人になっちまうんだよな……。どうする。どうすりゃいいんだ。まったく、こんなちゃちなことで悩むなんて殺人鬼が聞いて呆れるぜ……」
 冷蔵庫から麦茶の入ったポットを持ってきて、二つのコップに三杯目を注いでも、田中さんはまだ独り言を続けていた。ソファに座りなおしたぼくは田中さんが現実に戻ってくるまで、力を加えると沈むソファを手で押したりして待っていた。
「もういい、俺の負けだ!」
 ソファで遊ぶのも飽きて、ぼくが横になろうとした時、田中さんは自分の膝を苛立たしげに叩いた。
「お前は運がいい。俺に殺しを思い留まらせるなんてそうそうできることじゃないぞ。光栄に思えよ」
「う、うん」
 よくわからなかったけど、とりあえず首を縦に振っておいた。
 田中さんは吹っ切れた様子でコップのお尻を天井に向けてお茶を飲み干すと、また膝を叩いた。
「さて、俺の問題はこれで解決したとして、お前はこれからどうする?」
「どうするって?」
「このままでいいとは思ってないんだろ。今の状況をなんとかしたいんじゃないのか?」
「うん、そうだけど……」
 どうしようもないじゃないか。切実なその想いは口にしなかった。
 ママにしがみついて「行かないで!」と懇願するわけにはいかないんだ。それではママを困らせてしまう。ママを困らせるぐらいなら、笑顔で佐々木さんの元へ行くのを見送った方がまだマシだ。
 黙りこんだぼくの次の言葉を、田中さんはこちらを見据えてじっと待っている。その視線が痛くて、ぼくは逃げるようにソファから降りた。
「せ、洗濯物、取り入れなきゃ」
 田中さんの脇を通り抜けて、茜色に色づきつつある日光が差し込む窓に手を掛ける。日中ずっと暖められていた窓はほのかに熱を帯びていて、触れると自失気味だった安心感を与えてくれた。
 ベランダには生暖かい風が通っていた。その風にも癒されながら、身長の低いぼくのために置いてある台に乗って、物干し竿からハンガーをはずす。抱えきれなくなると、一旦台から降りて室内に洗濯物を投げ出す。そして、また台に乗り同じ作業を繰り返す。
 背中には相変わらず田中さんの視線がひしひしと感じられる。無言の圧力というのか、とにかく落ち着かなかった。
 下着も取り入れて、あとは重い布団だけだ。半身を外に投げ出した布団を取り入れるのは、体の小さいぼくにとってはなかなか難しい作業だ。まず、布団にしがみ付いて全体重をかけて引っ張る。ずるずると塀をこすりながら緩慢な動きでベランダ側に入ってきたら、あとは布団を背負うようにして部屋の方へと引っ張る。それでようやく、布団はベランダの床に落ちる。せっかく干した布団は少し汚れてしまう。でも、これは仕方のないことだ。たしかこういうのをめいよのふしょう≠ニ言うんだっけ……?
 全てを取り込み終わり、ぼくは滲んだ汗を拭った。でも、拭った先から汗がふき出してくる。逃げ道を失い、田中さんと向き合うしかなくなったからだ。田中さんは洗濯物を取り込む前からずっと同じ場所、同じ姿勢でぼくを見ている。
 睨んではいない。
 ただ、見ている。
 ずっとぼくの言葉を、待っている。だけど、遂に耐え切れなくなったのか溜息をついて、口を開いた。
「おい、坊主。俺は相談に乗ってやるといってるんだぜ。わかるか? 俺はお前の味方なんだ。別にお前が嫌なことをやらせたりはしない。だからどうしたいのか言ってみろ」
「う、うん……。でも――」
 優しげな口調にぼくは揺れる。
「煮え切らない野郎だな! 悩みを一人で抱え込むなんてませたことすんじゃねえよ。お前みたいなガキはひたすら大人を頼ってりゃいいんだ。遠慮なんてもっと歳とってから覚えな!」
「は、はいっ! ぼくはママにずっと傍に居てほしいです」
 ぼくは迫力に圧倒されて、本心を口にした。
「そう、それでいいんだ。子供ってのは素直だけが売りなんだからな」
 田中さんは満足気に顎鬚を摩る。その仕草が大人っぽくてカッコよかった。
「よし、任せろ。俺がなにかしらの解決策を練ってやる」
「ホント!」
 ぼくは田中さんの腕を掴んで揺すった。自分で言うのもなんだけど、ぼくの変わり身は早かった。
「本当だ。ただ、少し考える時間をくれ。俺は頭は悪くないんだが、頭の回転が遅いんだ」
「うん、待つ。ぼく、待つよ! ありがとう田中さん!」
 田中さんの首に抱きついて喜んだ。田中さんはくすぐったそうにぼくを引き剥がすと、苦笑いを浮かべる。
「まったく、お前と居ると調子が狂うわ。思考の邪魔だから、ゲームでもして暇を潰してな」 
 何度も首を縦に振る。でもテレビゲームは持っていなかったので、取り込んだまま放ってあった洗濯物をたたむことにした。
「しかし、こんなになった俺でも感謝されるとはね。皮肉なもんだ。せっかく築き上げてきた殺人鬼の面子が丸潰れだぜ……」
 
 
 
 
「そうかそうか! これはいい! 完璧だ!」
 畳んだ洗濯物の山を作り、手持ち無沙汰になったぼくは船を漕いでいたが、その声に飛び上がった。きょろきょろと左右に首を振り、なにもないと思ったら田中さんは真正面に居た。声高らかに哄笑している。
「これなら俺の面子も保てるぜ!」
 そうだった。
 意識が虚ろだったぼくはようやく居眠りをする前の記憶を思い出した。田中さんはママがぼくの傍に居てくれるための方法を考えてくれていたんだ。それじゃあ――
「なにか思いついたの!」
 ぼくは体当たりするように田中さんの胸に飛び込んだ。鏡で見れば、ぼくの目は輝いていただろう。期待で胸が満ち溢れている。
「ああ、最高に笑える策を思いついたぜ」
 田中さんはぼくを引き剥がしながら、今度は低い声で笑った。
 でも、その声はまるで別人のようだった。ぼくは妙に視界がぶれることから、自分の体が知らずのうちに身震いしているのを知る。あれ、おかしいな。怖くもなんともないのに、なんで、体がこんなにも怯えているんだろう。自分の体の異変に途惑いながら、田中さんを見やる。垂れた目尻に皺を寄せ、分厚い唇の両端を吊り上げていた。とても嬉しそうに、ぼくを眺めている。
 笑っていることを除けば、田中さんに特に変わりはない。しかし、安心したぼくの意思と体の反応がどうしても一致しない。小刻みだった震えの程度が激しくなる。特に膝が酷い。力が入らなくて、がくがくと笑っている。
「あ、あれ?」
 体重を支えきれなくなって、ぼくはぺたりと尻餅をついていた。その衝撃で辛うじて噛み合っていた意識と体が完璧にはずれてしまった。声の調子はいたって普通で、起きたばかりなのに頭も妙に冴えている。それなのに涙が氾濫して、体の振動も止まらなくて、いつの間にか肩を抱いている。体が操り人形にでもなった感覚だ。動きがぎこちなくて、また、誰かに操られているような、そんな気分。そして操られているのだとしたら、黒子の人が近くに居なければいけない。今、ぼくの近くに居るのは――
「田中、さん?」
 ぼくは途惑いながら瞳だけを動かして田中さんを捉えた。目が合うと、繋がった糸を引っ張られたようにっ体がびくっと跳ねた。やっぱり田中さんがぼくになにかしたのかな?
 田中さんは相変わらず嬉しそうにこちらを観察していたけど、しばらくして頷くと、ぼくの頭に手を伸ばしてきた。ぼくの体は手から逃げようとして、でも「動くな」との命令に、糸が切られたみたいに動かなくなった。
「すまんな、脅かすつもりはなかったんだ。あんまりにもいい案が思いついたもんで血が騒いでしまってな」
 頭に手を乗せて、田中さんはすまなさそうに謝った。それが呪文だったのかもしれない。体に突然自由が戻る。震えもぴたりと止まった。
 ぼくは混乱するばかりだ。今のはなんだったのだろう?
「さて、さっそく聞かせてやろう」
 両の掌を眺めて変わりがないか確かめていたぼくは、とりあえずそれを後回しにして田中さんの『いい案』を聞くことにした。
「うん! でもぼくにわかるようにお願いね」
「了解」田中さんは軽く頷いて話し始めた。「そうだな、状況を整理しながら計画を教えてやる。その方がわかりやすいだろう。まず、毎週日曜日になるとお前の母親は佐々木とかいう男の元へ行ってしまうんだよな?」
「うん」
「お前は母親に行かないで欲しい。だけど、ごねるわけにはいかない」
「そんなわかってることはいいから早く教えてよ」
 早る気持ちを抑え切れなくて、ぼくは焦らす田中さんにせがんだ。
「そんなせかさなくても、ちょうど本題に入るところだ。だがその前に幾つかクイズを出そう。お前は普段、どうやって移動する?」
「移動?」
 質問が理解できなくて、繰り返した。
 田中さんは興味無さげに頭を掻いている。お風呂から何日も遠ざかっているのか、白い粉が舞ってカーペットに落ちた。
「難しいか? じゃあ例えば、今お前の母親が帰ってきたとしよう。大好きな『ママ』が帰ってきたんだから出迎えに行くよな。でもお前は玄関までどうやって行くんだ?」 
「歩いてに決まってるじゃん」
 ぼくは頬を膨らませた。あまりに馬鹿にした質問だった。いくらぼくが子供だからって、それくらい知っている。田中さんはぼくの陰険な視線を軽く受け流した。
「そう、歩いてだな。次に第二問、お前はどうやって歩く?」
「ぼくを馬鹿にしているの?」
 我慢できなくて、強い口調で言った。
「違うって。いいから質問に答えろよ」
「……足を動かして」
 促されて渋々答える。すると、田中さんは目を光らせて、『それだ!』と指差す。ぞわりと背中に氷を入れられたような感覚が走った。でも、それは一瞬の事だったのでぼくは気にしなかった。
「そう、男も女も大人も子供も、赤ちゃんを除けば人間は皆、足を動かして動く。車やバイクに乗るにしたって必ず足を使う。当然、お前の母親だってそうだ。さて、ここで最後のクイズだ。これまでより難易度が高いぞ」
 ただならない気配に、ぼくは不機嫌になっていたことも一瞬で忘れて神妙な顔で頷く。
 田中さんは拳をぼくの目の前に持ってきて、ピッと人差し指を立てた。ずいぶん手入れしていないのか、田中さんの爪は伸び放題で、皮膚との間にはなにか黒っぽいものが溜まっていた。
「――今までのヒントを糸口にして、母親がどこにも行かないようにするには、どうすればいいのか? 考えろ」
 ぼくは眉を寄せる。そんなこと、今更わかるはずがない。今日までずっと、最初はいつだったか覚えてないくらい前から考えてきて、なにも掴めなかったんだ。何度も独りで涙を流して、何度もママに「行かないで!」と叫びそうになって、でも我慢しながら考え続けてきた。それでもわからなかったことをヒントを一つ二つだされたぐらいで急に思いつくはずがない。
 だけど、田中さんがあまりにも真剣な目でぼくを見ていたので、形だけでもと思って考える振りをした。途中、真剣に考えてみたけどやっぱりダメだった。
「わからないよ」
 しばらくしてから精一杯考えた風を装って溜息をついた。いつの間にか肩に力を入れていた田中さんも、それで肩の力を抜いた。
「ちょっと難しかったか。まあ、仕方ないな」
 窓は閉めてあるはずなのに烏の鳴き声がやけに近くで聞こえた。驚いて振り向くと、カーテンが挟まって、窓が微かに開いていた。どうりで、足がちょっと寒かったんだ。
「じゃあ、教えてやる。クイズの答え、もとい母親を家に留めておく方法をな」
 その声にぼくは向き直った。胸が鼓動を早める。ママがずっと傍に居てくれる。遠すぎた理想は今、手が届きそうなほど近づいていた。あと一歩、進んで手を伸ばせば掴める。掴んだら、もう一生離さない。佐々木さんも含めて、誰にも二度と奪わせない。ぼくだけのママ。そして、ママだけのぼく……。
 ぼくは田中さんの口元だけに注目しいていた。その口がおもむろに動く。
「そういや名前を聞いてなかったな。坊主、お前の名前を教えてくれないか?」
 期待して言葉と違ってちょっとがっかりした。でも、ぼくは田中さんの名前を知っているのに、田中さんはぼくの名前を知らないのは不公平だ。それこそ、ママがつけてくれた立派な名前に反してしまう。
「まさよしだよ。『せいぎ』って書いて、まさよしって読むんだ」
 自慢の名前を口にすると、田中さんは歓喜に顔を歪めた。まるで可愛い可愛いペットを見るような視線がぼくを包む。
「そうか、正義か! はっ、傑作だ。お前以上にその名が似合う奴はいねえよ! ますます気に入ったぜ。人間のしかも男に興味が湧くのは久しぶりだ! 正義、お前が望む答えを教えてやる。聞き漏らさないように耳かっぽじって聞いてろよ」
「うん!」
 名前を褒められたぼくは上機嫌で聞き入った。
 
 
 
 田中さんは六時半ぐらいに帰って行った。殆んど黒く染まった空の下、ぼくは玄関先で闇に溶けていく田中さんの背中に感謝しながらぶんぶん手を振った。
 約三十分後にママが帰って来た。外の冷たい空気にあてられたほっぺは赤くなっていて、心配になったぼくは手を添えてママのほっぺを暖めてあげた。お返しにママはぼくを抱きしめて頬擦りしてくれた。ほっぺはまだほんのり冷たかったけど、同時に暖かくもあった。
 それからはいつも通り。ママが買って来た弁当を仲良く食べながら、家事をしたことを褒めてもらったりした。
 田中さんが来たことは、ママには教えなかった。田中さんが秘密にしておいてくれと言ったからだ。有名人に合ったことを自慢したくてうずうずしていたけど、いい子のぼくは田中さんの言いつけを辛うじて守った。
 そして今、ママはぼくの足元で規則正しい寝息を立てている。カーテンの隙間から覗く光の線がママの顔を横切って伸びていて、ママの顔は暗闇の中でもよく見えた。その美しさは寝ている時でも決して損なわれない。仰向けになったまま方まで布団をかぶり、寝返りも打たずに姿勢正しく目を瞑っている。
 ぼくはしばし見惚れていた。いつか読んで聞かせてもらった毒リンゴを食べた眠り姫にそっくりだった。唇を合わせれば起きるのか試してみたかったけど、今はママを起こしてはいけないのでやめておいた。
 ぼくは物音をさせないように、爪先だけで寝室の中を歩く。洋服たんすの前に辿りついて、下から二番目の引き出しを音に細心の注意を払って引く。途中、手を滑らせてカタッと引き出しが鳴いた。ぼくは体を硬直させて、恐る恐る振り返る。ママは、眠りが浅い方なのだ。幸いにも、眉を不機嫌そうに歪めただけで起きる気配はなかった。
 その音でママが目を覚ますのではないかと思うほど、心臓がばくばく言っている。深呼吸をして、無理やり落ち着かせた。引き出しの中身に視線を戻す。ぼくの下着が綺麗に整頓されて入れられているその中に、手を差し入れた。
 探すまでもなく、手に当たる滑らかな手触りと硬い感触。取り出すと、革の鞘に収まったナイフが目の前に現れる。田中さんが「包丁じゃ頼りないだろうからこれを貸してやる」と言ってぼくに渡したナイフ。
 鞘についていたボタンを外して、柄を持ってゆっくりと引き抜いた。露になった銀色の刃は窓から差し込む光を反射して、鋭く光った。
 緊張のあまり喉が鳴った。ママは包丁さえ握らせてくれないので、ぼくは初めて刃物を握る。でも、刃物の怖さはママから嫌というほど教えられてきたので、震えるほど怖い。
 大丈夫だよ。使い方さえ間違わなければ便利な道具だと田中さんは言ったじゃないか。かたかたと震える手に言い聞かせた。
 このナイフがぼくとママに幸せを与えてくれるんだからもっと信じなきゃいけない。そうだ、信じるんだ。刃を凝視しながら頭の中でその言葉を繰り返していると、徐々に震えは収まって、やがて止まった。
 やった!
 引きつった顔で少し笑って、すぐにママを起こしてはいけないと笑い声を噛み殺した。
 運動したわけでもないのに、息が荒くなっている。頬を伝った汗をナイフを握った方の手で拭いそうになって慌てて、逆の手で拭った。
 ママのつむじに爪先を向かい合わせて立って、暗闇の中で際立つママの白い顔を見下ろす。今、ママが目を開ければ目が合うだろう。
 ぼくはナイフを胸の前で両手で握り、立ち尽くした。視界の真ん中に線状の刃が立っている。なぜだかすごく後ろめたかった。これで幸せが手に入れるはずなのに、不気味に光る銀色の刃はぼくに行為を留まれと訴えかけているように思える。胸を引かされそうな悲しみに心臓を押さえた。
 ぼくは幸せになっちゃいけないの? いつまでも、嬉しそうに佐々木さんの元へ行くママを指を加えて見送っていないとダメなの?
 ママ以外の誰かが傍に居たなら、ぼくは声に出して訊いていたと思う。そして泣き出してしまったと思う。
 でも、よかったのか悪かったのか、ぼくの傍に居るのはママだけだった。
 そう、この部屋はぼくとママだけの空間なんだ。二人だけの、誰にも邪魔されない空間。それを思うと秘密を分け合ったようで、気分が楽になった。
 そして――
 決心もついた。
 ぼくはママの寝顔に笑いかけた。
「ママ、ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね」
 囁いてから、ママの腰の辺りまで移動して、しゃがむ。起こさないよう慎重に足の方の布団をまくりあげた。ピンクの生地に白の水玉模様のついたパジャマが出てきた。
 口の中に溜まっていた唾を飲み込んでから、意を決してパジャマ越しの膝下にナイフを当てた。
 また不安が滲み出してきた。ぼくはナイフの柄をぎゅっと握り締めてそれを振り払う。
 当てたナイフを軽く、静かに引いた。パジャマが簡単に裂けて、その間に現れた肌に赤い線を作った。
「んっ……」
 見ると、ママは少し痛そうな顔をしていた。でも、まだ起きる気配はないみたいだ。よかった……。溜息をつくと同時にぼくは自分を責めた。ためらったら悪戯にママを苦しめるだけなんだよ。ママのためを思うなら、いっそのことためらいを捨てて、大胆になるんだ!
 ぼくは再度、赤い線をなぞるようにナイフを置いた。そして体中の力を腕に集中し、溜めた力を一気に爆発させる。
「つっ……!」
 ママのカキ氷のような繊細で真っ白な肌の上をナイフが前後にすべる。すると、内側からイチゴシロップに似た赤々とした液体がみるみる溢れてきた。ぼくは激しく動揺する。これが血。生暖かくて、感触は気持ち悪い。でも、見る分にはとても鮮やかで綺麗だった。
「……い。……たい。痛い!」
 歯を噛み締めて額に汗を浮かべていたママが大声をあげて起きた。起こしちゃってごめんなさい、ママ。もうちょっとだから、我慢してね。ぼくは心の中で謝りながら手を止めなかった。
「ああああ! 痛い痛い痛い痛い! なに、これ……!」
 まだ寝ぼけ気味だったママは痛みの原因がわからなくて叫んでいたけど、痛みで頭が覚めたのか次の瞬間にはぼくと、目が合った。
「……よ、よし君?」
 ママは膝に走る激痛も一瞬だけ忘れて呆然と言った。ママの瞳がわずかに動いて、ぼくの手の中にあるナイフを見つけた。途端、ママは痛みを思い出した。
「ん゛んん――――――! はあっ、はあっ! ……よし君、なんで……! やめてっ! 痛い!」
 ママは体を突っ張らせ、顔を天井に向けて悲鳴を上げる。
 それでも、ぼくの手は止まらない。先程から硬い感触があった。おそらく骨だと思う。ママのカキ氷のような肌は掛けすぎたイチゴシロップの血に溶かされてしまって、跡形もなかった。あたり一面が真っ赤で敷布団にも染み込んでいる。
 ママの獣のような叫び声を聞いているうちに、ぼくは完璧に錯乱してしまった。
 やめてと頼んでいる。やめろと命令している。ああ……、やめなきゃ。ママの言いつけは絶対なんだ。ぼくはママに逆らっちゃいけないんだ。
 幸せがまたぼくの目の前で逃げてしまう。やっぱりぼくに幸せになる資格はないんだ。残念だけど、仕方ない。ぼくは諦めて手を――止められない。
 嘘、なんで。どうして……。止まらない。止まらないよ!
 気づくと、ぼくの手に見えない糸が繋がっていた。誰かが糸を操ってぼくの手を動かしている。あの田中さんが笑った時と同じ感覚だった。田中さんは近くに居ないのになんで!
 ぐちゃぐちゃになっている頭でその理由がわかるはずがなかった。
「ごめんなさい……」
 絶えることなく、続くママの絶叫に混じってぼくは呟いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 震える声が大きくなっていく。
「だから謝るぐらいならその手を止めなさい! やめろって、言ってるでしょうがー!」
 ママが喚き散らしながら投げた目覚し時計が顔に当たってぼくはのけぞった。鼻血が出て、口の中にも鉄の味が広がる。
「ごめんなさい! ごめんなざい! どまらないのー! ママ、ごべんだざい!」
 ママと一緒に絶叫しながらぼくの手中のナイフは動き続ける。 
 
 
 さっきまでの騒ぎが嘘のように静まっている。怖いくらいに静かだ。カーテンの隙間から光の線が一つ、部屋の中へと伸びている。
 部屋の隅っこに膝を抱えてうずくまったぼくの手にはママの右足がある。左足は近くの床で転がっていた。赤くべたべたした足はとてもママのものとは思えない。
 ママは散々叫んだ後、また寝てしまった。ちゃんと謝ろうと体を揺すっても目を覚ましてくれない。悪夢でも見ているのか、とても苦しそうな、悲しそうな顔で固まっている。
 涙が止まらなかった。ぼくがやろうとしたいたことは達成されたはずなのに、なにも満たされなかった。むしろ、なにかを失ってしまった感じだ。
 ぼくの腕に繋がっていた糸はママの両足を切断すると、役目を終えたかのように消えた。結局あれはなんだったんだろう。田中さんが関係している気がするのだけど、わからない。
 なにもかもわからない。これからどうすればいいんだろう。
 ぼくは、とりあえずママが起きるまで寝ることにした。疲れがまぶたにのしかかって重い。起きたらママに叱ってもらってそれからどうすればいいのか訊こう。
 目を閉じた。夢の中のママは変わらず、笑顔を浮かべてぼくを手で招いている。久々にママの笑顔を見た気がして、ぼくは安心しながらそちらへ向かった。
 遠くでインターホンの音が聞こえる。
 
 
 
 
『――七人目の被害者なのでしょうか。
 昨夜未明、隣の部屋から悲鳴が聞こえたとの通報があり、警察が向かうと、部屋の住人――製薬会社勤務の二十九歳、鬼頭愛さんが遺体となって発見されました。鬼頭さんは両足を切断されていました。この事件について、愛知県警では、いくつかの条件が合致することから、六人の被害者をだしている連続殺人事件との関連性について調べています。愛知県警の前に高木記者が行っています。高木さん、事件について新しい情報は入ってるでしょうか?』
『はい、高木です。後ろに見える署内では現在、被害者の恋人だった佐々木弘樹さんに対して事情聴取が行われています。なお、被害者についてですが、鬼頭愛さんは近所でも評判の美人で、明るく真面目な性格だったそうです。鬼頭さんの評判はこれまでの連続殺人事件の被害者達と一致し、またナイフを使った犯行であることから、一連の連続殺人事件との関係は強いと思われています。…………えっ? はい、はい。えー、ちょうど今、新しい情報が入りました。鬼頭さんは未婚ながら息子を持っていたそうです。名前は正義君、六歳。正義君は母親の愛さんの発見された部屋におらず、現在行方不明だそうです。それに伴い、事件直後の現場近くで正義君と特徴の似た少年が、見慣れぬ垂れ目の男に連れられて歩いていたとの目撃証言があり、警察ではこの男が連続殺人事件の犯人と見られている――田中幸三容疑者ではないかという疑いを強めており、その線で捜査を進めていく方針です――』


あとがき
色々至らない点があったと思います。子供の気持ちを書くのって本当に難しいと痛感させられました

Rhapsody In Blue