ガウラのシレネ
著者 黒島 宮城
むかしむかし、ある所にガウラという王国がありました。肥沃な土地を擁し、周囲を海に囲まれた国は争いとも無縁でした。街には笑顔が充満し、他国から渡って来た商人や旅人はその幸福に満ちた空気に一瞬息苦しさを感じるほどでした。
しかし、王女――シレネはそんな平和に飽き飽きしていました。彼女は決して愚鈍ではなく、むしろ賢明だったので、平和の尊さは理解していましたが、平和は退屈を産み、それは如何ともしがたいものです。
年に一、二件ほどしか犯罪――それも暇つぶしにした盗み程度――の起きない奇跡的な治安の良さを維持していたガウラ国では、王女でさえも平然と町に繰り出すことができましたが、町は王室を多少質素にしただけで本質的には代わり映えがしませんでした。
シレネの中では日々、平和をぶち壊してみたいという極めて危険な願望とそれをしてはいけないという理性がせめぎあっていました。
しかし結局退屈だけが続いていたある日のことでした。遂にシレネに転機が舞い降ります。
その日も僅かな期待と巨大な諦観を懐きつつ、町へと訪れようとしていたシレネが城の門を抜けようとした時、門番が居眠りしているのを発見しました。
青々とした空の下、新兵と思しき少年はなんとも言えない幸せそうな寝顔で草のベッドに横になっています。治安の良さから兵を多く必要としないガウラでは少ない衛兵が酷使され、不届き者など入って来ない暇な門番が衛兵の睡眠時間に当てられるのは暗黙の了解でした。
いつもなら嘆息して通り過ぎるシレネでしたが、初めて見るカッコいいというよりも可愛いその少年に嗜虐心がそそられました。そう、最初はほんの悪戯のつもりだったのです。
耳元でワッと大声を出すと、少年はバネのように跳ね起きました。目の前に居るのが王女であることに気付くとさらに跳ねて驚きました。
予想以上の反応にシレネの方も驚き、そして滑稽な少年の反応に思わず大笑いしてしまいました。久々に心の底から笑ったと気づいたシレネは、自分の笑顔を取り戻してくれた少年に興味をそそられました。退屈な日常から救い出してくれるという光明を少年の中に垣間見た気がしたのです。
少年は名をニゲラといい、シレネより一つ若い十六歳でしたが、とても愉快で聡明な少年でした。
退屈だと打ち明けると、ニゲラは突然作り話を語り始めました。勇敢なる戦士の冒険活劇をニゲラは饒舌に詩的な比喩を混ぜつつ語り、内心馬鹿にしていたシレネもいつしか惹き込まれ、戦士の挙動に一喜一憂していました。
二ゲラが物語を締めて微笑んだ時には、東にあった日が西に移動していました。余韻に浸っていたシレネは、恍惚が突き上げてくるのを感じていました。
これよ!
シレネはもはや確信していました。ニゲラがつまらない日常を壮快にいろどってくれることを。この言い知れぬ陶然とした感情が何よりの証明だ、と。
シレネがその感情が恋心だと知るのはもう少し先の話でしたが、ニゲラの方は既に恋心を自覚していました。シレネは絶世の美女といって遜色のないほど美人でした。国一の美女が浮かべるキラースマイルにニゲラはすっかり魅了されていたのです。
かくして二人の蜜のように甘い秘密の関係が始まりました。残念ながら、いくら自由度の高いガウラの規律をもってしても平民と王族の付き合いなど認められなかったのです。しかし、その程度の障害は二人の恋を燃え上がらせる薪にしかなりませんでした。
暇を見ては顔を合わせニゲラがシレネに話を聞かせるというのが、二人の常のデートプランです。ニゲラは相変わらず語り上手で、さらに何度もシレネに聞かせているうちにますます上手になっていきました。普通の恋愛を甘酸っぱく謳い、単純な事象をミステリアスに謳いました。密会を重ねるうちにニゲラは「シレネ様」と呼んでいたのを「シレネ」と呼び捨てるようになり、二人の距離は確実に縮まっていきました。
春の邂逅を機に、夏に差し掛かって燃え上がり、そして――秋が訪れます。
ある日、二人は別れ際に口付けを交わしました。初な二人は真っ赤にした顔を逸らし、そのまま別れました。
しかし、その口付けは悲劇の始まりでした。運悪くその現場を目撃されていたのです。会話を目撃される分には弁解の余地は十分にありましたが、口付けでは言い訳のしようがありません。
悪いことは重なるのが世の常です。ニゲラの同僚だったならあるいは黙認してくれたかもしれませんでしたが、目撃者は密かにニゲラに想いを寄せていた侍女だったのです。
女の嫉妬ほど恐ろしいものはありませんでした。王女に盗られるぐらいならと侍女はニゲラを告発したのです。
一日を経たずしてこの大問題は王室に広がりました。重罪人のニゲラはすぐさま処刑されてもおかしくありません。しかし、王は処刑を選びませんでした。代わりに、島流しにすると宣言します。
普通なら軽罰として喜びますが、ニゲラとシレネは真っ青になりました。ガウラにおいて島流しは死刑と同義でした。
北と南二つの航路を選ばせられ、片方は王族の保養所がある地へ、片方は痩せこけた何もない無人島へ繋がっているのです。保養所へと辿り着けば罪は全て洗い流され、その地での永住を約束されます。
一見かなり良い条件の島流しですが、死刑と同義である以上落とし穴があります。保養所への海路は海が我を忘れて荒れ狂っているのです。与えられる小船にして渡れるはずがなく、それまでに島流しにあった者は一度も保養所に辿り着いた者はいないのでした。
だからと言って無人島の方に希望を見出すのは愚の骨頂です。海路は保養所のものと対称的に平穏そのものですが、無人島そのものが酷い有様なのです。やつれた土地に作物が育つことなく、あばら家一つない島で人間が生きていけるはずがなく、満たされぬ食欲がやがて生命を食い尽くして死んでしまうのです。
ニゲラは失意のまま島流しまでの二日間、投獄されました。ニゲラは見つかった時の覚悟はしていたつもりでしたが、若さゆえの楽観が祟り予想以上のショックを受け、半廃人になってしまっていました。
シレネは悲しみ暮れる暇もなく方々に手を尽くしましたが、王様のいうことは絶対です。決定は覆りません。それどころか、ニゲラとの関係をたしなめられる有様でした。
報われぬ努力に疲れも加わって、シレネは涙が抑えられなくなりました。刻々と迫る流刑の時間を涙が涸れるまで泣き続けたのです。
泣き終えた時には島流しの半日前になっていました。
「もうどうにもできないのね……」
シレネは絶望に打ちひしがれて呟きました。
しかし、全てを諦め考えるのをやめた瞬間でした。真っ白になった脳裏に不意に閃きが芽吹いたのです。
ニゲラが王家の保養所に辿り着けばいい。それはまさに発想の転換でした。
たしかに保養所への海路は大変厳しいのですが、まさか王家の人間がそんな荒波の合間を縫って命懸けで行くはずがないのです。つまり、王家専用の秘密の航路が存在したのでした。そして何度も保養所へ足を運んでいるシレネはその航路を知っていたのです。
ニゲラには島流しの直前に一つだけ願い事を許されます。彼は当然シレネとの会話を希望するでしょう。その時に教えることができます。
自分の閃きに最初は実感が湧かなかったシレネでしたが、やがて沸々と気持ちが込み上げ、あるところで爆発しました。彼女は羞恥心など意にも介さず、自分のベッドの上で狂喜乱舞しました。その衝動が収まっても、笑顔が零れるのは止められませんでした。
今日は眠れないと思っていたシレネでしたが、もう悩みの種はありません。ぐっすり眠れる――かのように思えました。
しかししかし、最終的には彼女は眠れない夜を過ごす羽目になりました。明かりを消して一人で使うには大きすぎる豪奢なベッドに入り込んだシレネは気づいてしまったのです。
保養所は、王室がいつでも訪問できるように侍女が十数人住み込みで屋敷を維持しているのです。ニゲラが保養所に辿り着いた場合、罪は許されますがそこに永住しなければならないのでした。
女しかいない環境に男であるニゲラが投入されればどうゆう扱いを受けるのか?
女同士で慰めあっていると噂されるほど飢えた環境に、盛りの年齢でもある男が入ることがなにを意味するか?
そう、これこそが王様の狙いでした。寛大な王様も愛する娘の今回の所業にはさすがに腹を立て、シレネに灸を据える意味でニゲラの流刑を決定したのです。
王様の狙い通り、シレネは苦悶しました。
ニゲラには絶対に死んでほしくありません。退屈から救い出してくれた自分の英雄です。しかしその過剰な愛情ゆえに、他の女に取られるなど考えるだけでも反吐が出ます。かといって、秘密の航路を教えなければニゲラの死は必至です。それでも、保養所に行かせたくない。
思考は螺旋を描くばかりで出口はみつかりません。今度ばかりは光明が舞い降りることもありませんでした。全ては彼女次第なのです。
愛すべき人の幸せを願うか。それとも、独占欲に正直に従うか。
あっちに傾きこっちに傾き、シレネは揺れ続けましたが、決断には至れませんでした。纏わりつく眠気に目を擦ると、気づけば朝になっていました。
シレネの胸中を暗示するかのように、雨がぱらぱらと降っていました。
いよいよ、島流しの時刻が迫ってきています。
当然のように、ニゲラは最後の願いにシレネとの会話を望みました。却下すべきという声も出ましたが王様の認める、の一言で周囲は静まり返ります。
シレネはニゲラの元へ歩み寄りました。
「シレネ……」
「ニゲラ……」
二人はお互いの名を呼び合うと、無言で見つめあっていました。しばらくすると、どちらからともなく抱き合います。ニゲラは痛みを感じるほど力強く、シレネは触れているのかも怪しいほど弱々しく。
ここまで来てもシレネの気持ちは固まっていませんでした。でも、もう時間がありません。半ば自棄になったシレネは煩わしい思考を捨てました。そして、全てを自分の口から自然に零れる言葉に委ねたのです。
「あのね――」
抱き合った体勢からシレネはニゲラに耳打ちしました。
さて。
シレネはニゲラになんと言ったのでしょう。
あとがき
あとがきってなんか恥ずかしいですね。
本作は奥深い作品という漠然としたイメージで書きました。読めばわかると思いますが、曖昧な終わりとなってます。
明確な答えはありません。読者様によって解釈は違うと思います。ただもし、どうしても気になるという方がいらっしゃったなら、作者の解釈を作品中に隠してあります。興味が湧いたなら少々の苦労かとは思いますが、調べてみてくださいませ。
偉そうなこと言いましたが、最後に本作を読んでくださった方に感謝を述べておしまいとさせていただきます。ありがとうございましたー。