母と雪
著者 薔薇百合 菊梅
 
 雪が見たい、と。
 真っ白でさらさらの、空から降る雪が見たい、と。
 彼女はそう願ったのだ。
 叶わぬと知っていながらも。
 
 
 
 つとむは雪というものを直に見たことが無かった。テレビや本で見たことはあってもそれが本物と程遠いということはなんとなくわかっていた。つとむが住んでいるところは雪が降るようなところじゃなかったし、雪が降るような寒いところへは行ったことが無かった。でも別にそれが不思議ということは無い。つとむの友達もおかあさんも雪は見たことが無かった。冬でも暖かい「常夏の島」に住んでいては雪はめったに見れない。――それでもつとむからしてみれば冬はとても寒いのだけれど。
 でも、つとむはどうしても雪をおかあさんに見せたかった。見せないといけなかった。何でこんなに一生懸命になっているのかは自分にもわからなかった。だけど心のどこかで実はわかっているような、不思議だけど少し怖い気持ちだった。
 少し前に、もう見慣れた病院の白いベッドでおかあさんは言った。
――そうね……おかあさんは一度雪を見てみたいわね……
 そのときのおかあさんの顔がつとむには何故か忘れられなかった。とても、寂しそうだった。
 そのときにつとむは思ったのだ。おかあさんに雪を見せてあげたい、と。それはどんな宿題やお手伝いよりも大事なことだった。
 
 
 だが、幼いつとむは知ってしまう。それを叶える事がとても、とても困難なことを。
 
 
 十一月になっていた。もう秋も終わるという時期になっても、まだ暑い日が続いている。つとむとしては残念なことだった。三十度近くまで気温が上がっていたら雪はとても降りそうに無い。思い出したように空を見上げてはため息をつく日々が重なっていた。
 そう落ち込んできたつとむの耳に入ってきたのが、北海道から学校へ雪が届くという大ニュースだった。つとむは知らなかったけど、それはいろんな学校でよくやっていることだった。雪を見たこと無い子供に雪を見て触ってもらうという、そんなイベント。
――あのね、おかあさん。あしたがっこうにゆきがくるんだって。ぜったい、ぜったいもってかえってくるね
 おかあさんはすごく嬉しそうに笑ってくれた。学校が終わるころはよく眠っているけど、明日は必ず起きておくわね、と言ってくれた。つとむも嬉しくなって、家に帰るとご飯を食べてお風呂に入って、いつもよりうんと早くパジャマに着替えた。
 
 
 それを叶える事は、とても難しく。
 
 
 学校に届いた雪は、にせものだった。
 そう思ってしまったほど、朝会でみんなの前に広げられた白いものは雪じゃなかった。
 雪だるまの形をした箱にめいっぱい詰まっていたのは雪というより、もう氷だった。明らかにさらさらしてなくて、念のために触ってみてもやっぱり固くて力を込めたらぼろぼろと崩れてしまった。それどころかどんどん太陽の光で溶け始めた。そこにつとむの想っていた雪は無く、ただ溶けたカキ氷みたいな山にみんなが集まっていた。
 つとむは、ただ一人その氷に近寄らないで涙を抑えていた。
 
 
――しょうがないわよ、悪いのはつとむじゃないわ。雪を運ぶのはとても難しいことなのよ
 おかあさんはそうつとむを慰めてくれた。おかあさんはいつも優しかった。おかあさんを無理に起こしてしまったと謝るつとむの頭を撫でてくれた。
――そこまでしてくれてありがとね。雪はつとむがもっと大きくなって、お母さんも元気になったら北海道に行こうね
 つとむは喜んで、大きく首を縦に振った。おかあさんも、いつものように笑っていた。
 おとうさんが大慌てで病院へ行ったのは、それから三日たった日だった。
 つとむは、なにかをわかっていた。よくはわからないけどとても嫌な気分がずっと続いていた。お父さんは帰ってきたら今日は遅いから寝なさいと言って、それだけだった。少しだけ見えたおとうさんの顔は、今まで見たこと無いぐらい元気の無い顔だった。
 その夜はちっとも眠ることなんか出来なかった。
 次の日は、病院には行けないと言われた。病院に行っても会えないらしい。つとむは心のどこかで、前と同じような気持ちになっていた。
 
 
 彼女は、雪が見たい、と。
 
 
 ちょっとずつ頭に浮かんでくる考えを忘れようとして、つとむは一生懸命に動いていた。次におかあさんに会える日のために、その日にぜったい雪が降るように。てるてる坊主をいっぱい作った。さかさまに吊るしたら雨が振るって昔おかあさんが言っていた。雨じゃ駄目だから、冷蔵庫に入れた。冷やしている間ずっと流れ星を探して空を見ていた。そして、寝る前に冷たいてるてる坊主を全部窓の外に吊るした。明日は雪が積もって寒くなるはずだから、布団をちゃんとかぶって眠った。夜はまだ、暑かった。
 
 
 叶わぬ願いと知りながらも。
 
 
 朝起きたら、寒いはずだった。
 体中が汗だらけだけど、きっと今は寒いはずだった。あんなに、あんなに頑張ったんだから外は雪がいっぱい降っていて真っ白で、とっても寒いはずだった。
 おとうさんはまだ眠っていた。日曜日はいつもよく眠るけど、今日はいつもよりもっと眠っていた。昨日遅く寝たのかもしれなかった。病院には、一人でも行ける。つとむはタンスの一番下からちょっとしか着たことないジャンパーを出して、どんなに寒くても大丈夫なようにして、家を出た。
 今日はおかあさんに会っても大丈夫だという。案内は断って、雪が降るのにクーラーで涼しい病院を季節外れな格好でつとむは歩いた。
 ほんの少し会わなかっただけなのにおかあさんは、とても痩せた気がした。腕も、体も、顔も。なんだか全部が細かった。おかあさんは白いベッドに寝ながら優しく笑っている。いつものように体を起こすことはしなかった。
――つとむ、どうしてそんなに暑そうな格好をしているの?
 つとむは、大きく答えた。
――あのね、おかあさん。今日はね、ぜったい雪が降るよ
 まだ外は暑かった。でもつとむはそう言った。どうしてか、そう言わないと今すぐおかあさんが眠ってしまうような気がして。
 おかあさんは不思議そうな顔をしている。でもつとむは構わないでそばによって、おかあさんの手を握った。冷たかった。
――雪?
 つとむは、うん、とうなづいて早口で喋った。
 今日は雪が降る。おかあさんがずっと見たいといっていた雪が今日はここにも降る。いつもは暑くて全然雪なんて降らないけど、今日はなにがなんでも降る。おかあさんと自分がこんなに願っているんだから、降らないはずは無い。降らないはずは、無い。
 降らない、はずは――――
 いつのまにか、つとむは汗だらけになっていた。
 髪もびっしょりで、一番下のシャツもかなり濡れていた。だけどつとむは服を脱がなかった。ここで暑いと思ってしまったら、もう雪は降らない。そんな気がしていた。だから、おかあさんを元気にできる雪が降るのをただ信じて、つとむ自身だけでも信じて、精一杯おかあさんに声をかけた。
 おかあさんの顔を一心に見つめながら、ただ雪が降るから、と。ただおかあさんは元気になるから、と。頭からたれてくる汗も拭かないで、それとは別に流れてくるものにも気付かないで、ただ必死だった。
 つとむが泣きながら大声を出している間、ずっとおかあさんはつとむの手を離さなかった。つとむが泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっとおかあさんも起きていた。眠ってしまったつとむの汗と涙で濡れた顔を見て拭こうとしたけれど、考えて、やめた。この汗が本当に雪を呼んでくれた気がしたから。つとむだけじゃなくて、おかあさん自身もその願いを信じたかったから。
 おかあさんは誰にも聞こえないぐらいの声で、何かを言って、ゆっくりと目を閉じた。窓から見える空は、哀しい青色だった。
 
 
 命の灯も、溶け逝く結晶と同じく。
 
 
 つとむが目を覚ますと、病院の廊下だった。服も涼しいものに変えられていて、隣にはおとうさんがいた。つとむが起きたのに気付いてないみたいで、じっと動かないでどこかを見ていた。その先には、おかあさんがいた部屋がある。どれくらい寝ていたのか、もう他の人がいなかった。そしておとうさんは、たぶん泣いていた。涙も声もなかったけど、それがつとむにはわかった。おかあさんのことも、たぶんつとむはわかっていた。考えるとわからないけど、口では全然言えないけど。もっと大人になったら、わかるんだと思う。
 
 つとむ。おかあさん本当はね、雪よりもね、つとむを見ているほうがずっと好きなのよ。だから、そんなに悲しい顔をしないで、ね。
 
 夢でおかあさんがそう言っていた気がした。
 
 
 彼は大人になって、故郷を離れる。
 家を離れるのは寂しいけれど、雪を見て思う。
 天から舞い降りる白い雪、そのどれか一つに彼女の想いが乗せられてはいないだろうか。
 そして、雪を見るたび思い出す。
 幼かった日と、優しかった母を。
 自分を、見てくれてる母のどこまでも優しい笑顔を。


あとがき
どうも。読んでくれたあなたに感謝を送る配達員、薔薇百合菊梅です。
沖縄は雪が降らない土地です。実際に雪が送られたりすることはあるんですが如何せんどうしても『雪』ではないんですよねぇ。
こういう話は書いたことなかったんですが、少年の懸命さが伝わってたら幸いです。親はいつかは去ってしまうものなんですよね……。
また、文体もかなりいろいろと意識していました。やりにくかった……。

Rhapsody In Blue