涙
著者 薔薇百合 菊梅
「私が海好きだって、よく知ってたね」
波の音の間に少女が言う。それは隣に座る少年に向けられていた。
「あぁ……ほら、美術の時に海を描いてたでしょ」
あー、と納得して少女は笑った。
好きなもの、というテーマでの授業があったのだ。あの絵は傑作だった。
海岸から突き出た防波堤に二人は座っていた。少し前に釣り人が帰ってからは制服姿以外誰も見られない。再び少女が口を開く。
「で、その……圭、用って?」
圭と呼ばれた男子生徒はその問いになぜか目を逸らした、赤くなった顔を隠そうとしたのかもしれない。だが、質問した本人も頬を朱に染めている。だいたいこれから交わされる会話の内容が彼女にもわかるのだ。
藤堂亜矢と宮原圭は学校でも有名な公認カップルだ。もっとも、二人はどちらからも告白らしい事をしていないのでそうは思ってないのだが。あくまで友達以上恋人未満、というやつだ。
ところが終業式の今日、亜矢は圭に海へ行かないかと誘われた。海、夏休み前、夕暮れに二人きり。このシチュエーションはひとつの答えを亜矢の頭に導き出していた。そう、圭は今から部活をサボってまで二人の関係を完全にシフトアップさせるつもりなのだ。きっと、おそらく。
だから亜矢は今から圭が何を話すのか気が気ではなかった。それが二人に幸をもたらすのか不幸を落としていくのか予想さえしなかった。そう、不幸を落とすなど夢にも思わなかった。
圭の顔が真剣になり、話を切り出す。
「あの、さ」
うん、と亜矢もそれに聞き入る。
…………。
続きが聞こえない。緊張しているのかと思い、待つ。だが数秒待ってもまだ話さない。さすがに不思議に思い、亜矢は圭を見た。その顔は、緊張と言うよりは、何かをひどく躊躇っているようだ。
亜矢と目が合い、圭は少し驚いたようだった。ひとつ深呼吸をすると、覚悟を決めたように続きを話し出した。
「実は俺、今日引っ越すんだ」
「……ふうん?」
意外な告白に亜矢が気のない返事を返す。
「でさ、その……引越し先って外国なんだよ」
何が言いたいのか、わかった。
「外国に……引っ越すの?」
鸚鵡返し。嘘と言って欲しかったのか、聞き間違いだと思いたかったのか。だが、圭は俯いたまま何も言わない。それが本当に彼が海を越えてしまうのだということを示していた。
「…………」
言葉がでない。昨日までは、いやついさっきまではそんな素振り少しも見せなかった。そんな大事なことが最近決まったわけではあるまい。彼はだいぶ前から知っていたのだ、知っていて今まで通り亜矢と過ごしてきたのだ。
唐突に、寂しくなった。彼は何故自分に黙っていたのだろうか。自分だけではないだろう、他の友人にも一切話さなかったに違いない。それをいつ知ったかはわからないが、その直後から、あるいは翌日からも彼は別れが確定した友人たちと今までどおり接してきたのだ。そんな状態で体育祭や文化祭が楽しみだとか言っていたのだ。理由はわかる。きっと自分がいなくなることを言って関係が変わるのを拒んだんだろう。無理に気を使って欲しくなかったに違いない。彼も亜矢も友人たちも、優しいのだ。
それが、寂しかった。自分だけにでも話して欲しかった。おそらくあったはずの悩みや悲しみ、寂しさを自分にも分けて欲しかった。共有したかった。それが恋人、パートナーなのではないだろうか。やはり二人はまだ恋人ではなかったということなのだろうか。亜矢はこんなにも、こんなにも圭を……。
「……ら、さい…に………しい」
圭が何か言っていた。はっと顔を上げて、圭の顔を見る。彼は足元、波が壁にぶつかる様を見つめながらもう一度言った。
「だから、最後に聞かせて欲しいんだ」
「……」
最後、という言葉がなぜか重く感じる。
「その……俺は、亜矢が……好きだ」
「え…………」
好き?
さっきとは違う理由で亜矢は沈黙する。
「うん。俺は亜矢が好きなんだ。それで……亜矢は…………」
最後のほうは波の音にかき消されそうなほど尻すぼみだったが、それは当初亜矢が望んでいた展開には違いなかった。まさかこんな流れでくるとは思わなかったが。
宮原圭は藤堂亜矢が好きだ。では、藤堂亜矢は宮原圭が――
「私も好き」
考えるまでもない。もう何年になるかわからないほど亜矢は圭が何よりも好きだった。細かい理屈や理由は要らない。それが今やっと、やっと伝わったのに。
彼はいなくなる。
そのことが頭をよぎると、亜矢は言葉が続けられなかった。
圭は今どんな気持ちなのだろう。嬉しいだろうか、ほっとしただろうか、それとも余計に悲しく、寂しくなっただろうか。
頭の中は整理もつかず、何もできない。ただ亜矢は水平線を見つめるだけだった。どこまでも続く直線が果てしない距離を連想させ、さらに悲しくなる。もう我慢できなかった。
「あ、亜矢!」
逃げた。これ以上圭といると、泣いてしまいそうだった。
カラーとスカートが翻るのもかまわずに走った。後ろから声と足音が聞こえてくるが、陸上部のエースを務める亜矢に彼が追いつけるはずはなかった。景色が後ろに流れれば流れるほど彼が遠くなっていく。すぐにでも走るのをやめれば彼は追いつくだろう、だけど足は止まらなかった。
いつしか彼の声も足音も聞こえなくなっていた。茜色だった空も色を無くしていた。秋と違って日が沈むのが遅い夏だが、それだけ走っていたということなのだろう。ただ月と星だけが亜矢を見ている。
波の音が聞こえた。
どうやら海岸沿いに走っていたらしい。何キロ走ったかは分からないが、別の砂浜に着いていた。
今日から夏休みにはいるが暗い砂浜には花火を楽しむ人も語り合う恋人もいなかった。花火をやっている人がいれば眺めることで気が紛れたかもしれないのに。
結局家に帰る気にもなれず――圭が来ないはずはない――、これ以上どこかへ行く気にもなれずに砂浜に座り込んだ。することもなく黒い海を眺める。夜の海は気味が悪いとか、怖いとか言う人が多いけれど亜矢はそんなふうに思ったことはない。むしろ夜は昼とは違う落ち着きがあって好きだ。
だけど今はその静けさが逆に寂しさを醸し出してしまっていた。走っている間が忘れていたのに涙がまた出てきそうになってしまう。
その悲しい沈黙にいきなり軽快なメロディが飛び込んできた。
一瞬びくりと体が跳ねたが、それがすぐに自分の携帯電話の着信音だと気付く。ポケットから引っ張り出して画面を見ると、自宅からだった。母親だろう。通話ボタンを押す。
「もしもし……うん、ごめん……悪いけど今日友達の家で泊まっていいかな……うん、明日の夕方には帰るね……あ、それとね、宮原君が来るかもしれないけど言っといてね……うん、ありがと。それじゃあね」
電源ボタンを押し込み、携帯をしまう。
突然、母に嘘をついた自分と圭の姿が重なってしまい、胸に苦しみを覚えた。胸を押さえても痛みが和らがない、体を丸めても力を込めてもそれは収まらなくて。
気力もなく食欲もなく、ただ波の音を聞いていた。
頬を涙が伝った。
涙は、冷たかった。
波の音、潮の匂い、砂の感触。
亜矢は横になっていた。寝てしまっていたらしい、泣き寝入りか。目を開けるともう明るく、鞄が枕になっていた。
体を起こし、砂を注意深く払って目をこすると、少し濡れていた。起きて最初の光景が海というのは素敵だが、こんな気分では何の感慨も湧かなかった。どうしてこんな気分で朝を迎えてしまったんだろうか。空も海も黒から青に変わっている。
時刻を知ろうとポケットから携帯電話を取り出すと、もう昼に近づいていた。圭は今何をしているだろうか。荷物をまとめている途中か、もう空港か、それとも……。
頭上を、影が覆った。
「亜矢」
一度目は気付かなかった。
「――亜矢」
二度目は、動けなかった。
「――――亜矢っ!」
振り向いたのは、怒鳴られたからかもしれない。きっと自分は間抜けな顔をしていただろう。弾かれたように振り向いた先には宮原圭が立っていた。
「……亜矢」
四度、彼は名を呼んだ。それ以外にかける言葉が見つからないのかもしれない。それは圭も亜矢も同じで、亜矢は「圭……」と呟くことしかできなかった。目を合わせたまま言葉が続かない。
なぜ圭がここにいるのか。引越しはどうしたのだろうか。疑問が頭を飛び回る。圭は制服姿のままだった。家には帰らなかったのだろうか。
波の音が規則的に届く。
「何で……」
波の合間に少女が尋ねる。ほとんど消えてしまいそうな声だったが聞こえたようだ。
「携帯……GPSついてるだろ」
ああ、それでここがわかったんだ。そう理解したのと同時、知りたいのはそんなことじゃない、と思う。
「何で……ここに」
聞こえるように、波が引いたときに言う。すると、彼は目を逸らした。その表情は気まずそうに曇っている。もしかしてわざわざお別れを言いに来たのだろうか。もしそうなら、会いたくはなかった。
しかし彼が言ったことは、
「ごめん。あれは、嘘なんだ」
亜矢に衝撃を上塗りして。
「――――え?」
結果として、亜矢は再び声が出なくなった。
まったく状況が飲み込めない、という顔の亜矢に向かって圭が本当に申し訳なさそうに事の経緯を説明し始めた。
「その……実はこの前本を読んでいたら……」
『人が人を想う本当の気持ちは別れ際、「最後」と思える場面で出てくる』という内容の話が載っていたらしい。
「それで……俺、亜矢の本当の気持ちが知りたかったんだ」
つまりそのシチュエーションを演じることによって亜矢の本当の気持ちを引き出そうと思いついたらしい。
「だから、俺は引越しもしないし当然会えないなんて事もない。ええと……ごめん!」
全てを説明し終わると彼はなんと土下座をした。頭を半ば砂に埋もれさせてそれきり凍ったように動かない。また返事を求められている亜矢自身もあまりのことに思考が凍結していた。彼は何を言っているんだろう。
全ては、亜矢に告白するための台本だったらしい。ただ亜矢が走り去ってしまうという事態がイレギュラーだっただけで。
まっしろだった。亜矢の頭も、心も。自分はどうしてあの時あんな行動をしたんだろう。
「圭。頭、上げて」
幾分はっきりした声で言うと、ゆっくりと圭が体を起こした。相変わらず表情は暗い。負い目を一身に受けているようだ。
そんな彼の顔に微笑んで、抱きしめた。何も言わず、何も考えず、ただ抱きしめた。
圭は声が出ないようで、驚いた表情のまま口をパクパクさせている。腕にいっそう力を込めてみる。圭の腕が、亜矢の背中に当たる。二人は抱き合った形となっていた。
「亜矢……?」
ようやく圭が声を出すが、亜矢は答えなかった。
何でいちいちあんな回りくどいことなんかして告白したのか。自分と圭だったら、どんな簡単でもいい。ただ言うだけでも、電話でも、メールでも。自分が圭への気持ちを偽るはずなんてないのに。そこのところを彼はまだわかっていない。本当に、藤堂亜矢をわかっていない。本当に、馬鹿みたいだ。
「――ばか」
だから、思ったとおりに言った。顔は笑っていると思う。頬がくすぐったいのはきっと髪の毛のせいだけじゃないと思う。
「なあ……これ、演劇部のシナリオに使っていいかな」
圭が笑いながら聞いてきた。彼は演劇部の部長なのだ。
亜矢はもう一度小さく、笑顔で言った。
「ばか」
涙は、温かかった。
あとがき
「あとがき=プロ」って感じがするのは私だけですかね。
さて、読んでくださってありがとうございました。薔薇百合菊梅の「涙」。
これが初作品ですね。まあいろいろワケアリな私、これからもがんばっていきます。
この作品は「涙は冷たかった・温かった」というフレーズを思いついて、書いたようなものです。なんというか、実際こんな男いたら大変ですね。
ここだけの話、当初は運動会を舞台とした話を考えていたんですがプロローグで十五枚を超えるという長さだったので急遽この話が書かれたのでありました。
ちなみに、バラユリ キクメでございます。