晩夏の風
著者 鏡 柘榴
 
「そういえば俺、結婚するんだ」
 真向かいに座っている男の爆弾発言に、飲みかけたウィスキーの水割りを盛大に噴出した。
「汚っ!」
 咳き込む人間よりも、テーブルの料理を庇った男を涙目で睨み付ける。
「そんなに驚くな!」
「驚くわ! 結婚の“け”どころか、恋愛の“れ”の字もないお前が!」
「何処までも失礼だな! お前よりはマシでマットウだ!」
「てめぇ、言ってくれたな!」
「あのぅ……御客様……」
 びしっと男の鼻先に指を突きつけたところへ、おずおずと現れた中年の小柄な店員さん――恐らく店長なのだろう――に声を掛けられて、我に返った。咳払いをし、席に着く。
「……すみませーん……」
 小さな声で一応謝ると、店員さんはニッコリと笑った。……目は笑っていなかったが。
「ったく、お前のせいだぞ」
「お互い様だろ」
 舌打ちが重なって、また舌打ちしたらまた重なった。
 気を取り直して、辛うじて残っていた水割りを飲み干した。……薄い。
「おい、“おめでとう”はないのか」
「あるかよ馬鹿野郎。ナニガシ曰く結婚は牢獄なんだぜ?」
 ウィスキーをロックで追加し、目の前の枝豆に手を伸ばした。枝豆なら唾液混じりのウィスキーが掛かっていても大した問題ではないだろう。多分。
 薄暗い照明、洒落たジャズ。閑散とした空気。エアコンの生温い風。
 会話が途切れたら急に周囲が出張ってきた。何だか苛々する。
 次のウィスキーが来るまで、煙草で繋ぐことにした。薄いピンク色の箱を取り出すと、男は苦笑した。
「まだ止めてなかったのか」
「悪いか」
 ゆっくりと、煙を吐き出す。……軽い。
「で」
 あ? と訝しげに男は顔を上げた。
「……どんな女、なんだ」
 そこで男は初めて真面目な顔をした。少し長めの茶色の髪をくしゃりと掻き回しながら、暫し考えている。
 そんな様子を眺めながら、灰を落とす。
 コイツのこんな表情、見たことがなかった。いつも度が過ぎた笑顔で、バカなことばかり言っていて、時々歌いながら踊り出す。「人前ではやるなよ。恥ずかしいからな」と言う度に、くだらない喧嘩に発展することもしばしばだった。
「……かわいい」
「散々考えて、それだけか!」
 むぅ、と男の手入れされた細い眉根が寄る。焼酎が入ったグラスをくるくる回しながら、ぼそぼそと呟く。
「コレといって顔が美人とか、秀でた才能があるとか、そういうんじゃないんだよな。平らな所でもコケるし、包丁握らせたら手を切りそうだし、服のセンスは奇抜通り越しているし、よく泣くし」
 ウィスキーが運ばれてきた。
「大丈夫なのか、ソイツ」
「あ、それだ」
 男はぱっと顔を上げた。
「大丈夫なのか? なんだよ。危なっかしくてほっとけない」
 そう言って、男はグラスに口を付けた。
「それでも、俺と付き合ってからは料理は頑張ってるみたいだけどな。大分食べられるようになった」
 灰皿に煙草を押し付けた。まだ燻っている。ぐりぐりと力を込めた。消えたのを確認してもう一本取り出す。
 紫煙が上がった。
「そんなに酷いのか」
「聞いて驚け! 五味五色が全部入ってるんだぜ? 一つの料理に! 且つ苦味と黒色がやたら入ってるんだぞ!」
「……悪ぃ、想像出来ない」
「うん、俺も思い出せない。マジで元は何だったんだろうか……」
「無理して思い出すな。何だかゲテモノが出てきそうだ」
 頭を抱えて回想迷走に入る男を引き止めた。
 氷がカラリと崩れた。 
「……結婚式、呼ぶからな。絶対来いよ」
 すぐ言葉は出て来なかった。
「……考えてやらなくもない」
「相変わらず酷い奴」
「お互い様だ」
 煙草に手を伸ばす。男は咎めるような視線を寄越したが、構わずジッポを近付けた。
 ゆらゆらと店内を巡る煙を見送って、一息吐いてから、グラスを掲げた。
「おい、グラスを出せよ」
 男は小首を傾げたが、言うとおりにした。
 ウイスキーグラスをそれにぶつけた。澄んだ好い音がした。
「おめでとう」
 男は嬉しそうに――本当に嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
 
 
 男と別れた後、特に用事もないので家に帰ることにした。
 携帯を取り出そうと鞄に手を突っ込んだら、煙草の箱が左手に当たった。ピンクじゃない、緑の箱だ。
 衝動的に火を点ける。
 やはりこっちの方が落ち着く。あれは軽過ぎた。メンソールも全然キツくない。
 夏といっても、お盆を過ぎると夜は冷える。……寒い。
 久々に会うからと、滅多に履かない黒い膝丈スカートを履いてきたのに。伸ばした髪を時間を掛けて巻いてきたのに。気合い入れてメイクしてきたのに。ネイルはピンクの花をところどころ咲かせてきたのに。慣れないヒールの高いミュールを履いても颯爽と歩いてみせたのに。煙草はこれでも譲歩してかなり軽くしたのに。
 アイツは見向きもしなかった。
 高校の時からの友達だった。「とりあえず部活に入れ」という両親の勧めで、美術部に入ったのがきっかけで、仲良くなった。けれど、部活に顔を出したことは殆どなかった。それは、アイツも同じだった。
 アイツとあたしは、驚くほど似ていた。
 絵よりも彫刻、パステルよりもビビッド、水彩画よりも油絵、数学より国語、晴れより雨、亀より兎、コーラよりサイダー、大人より子供……。
 よく一緒にいるものだから、彼氏彼女と間違われることもしょっちゅうだった。その度に二人で全否定をしていた。
 卒業してからも、付き合いは途切れなかった。他愛のない雑談メールも結構していたし、メールを打つのが面倒になって電話で話すこともあった。
 だから、あたしは期待していた。
 だけど、アイツは違ったようだ。
「鈍くて、料理下手で、センス悪い女、ね」
 灰と独り言が落ちた。
 出来の悪い冗談でも、後味悪い夢でもない。
 それなのに、涙は一滴も零れ落ちてくれやしなかった。
 泣けたら何かが変わっただろうか。告白していたら別の未来が拓けただろうか。
 全ては後の祭りだった。
 見ず知らずの女への嫉妬なのか、アイツへの八つ当たりなのか、自分への苛立ちなのか。道路に落ちていたアルミ缶を思い切り蹴飛ばした。自分の足先のことなどすっかり忘れて。
 アルミ缶は甲高い音を立てて、坂道をコロコロと転がって、車道へ出たところへ運悪く轢かれてしまった。
 夏の終わりを告げる風、匂い。……やはり寒い。
「……卒業、しないとな」
 吐き出した煙と笑みは、酷く苦く、酸いものだった。


あとがき
超ウルトラ(中略)お久しぶりな鏡です。
 
テーマの他に、「酒」「煙草」「女」というキーワードを入れて書かせて戴きました。
しかしどれも詳しくないのは秘密です。
鏡は酒に弱く、煙草は吸わず、女は半分止めている感じですからね……。
 
最後まで読んで戴き、有難うございました。

Rhapsody In Blue