HEATH
著者 鏡 柘榴
 
1.
 一階保健室のドアをノックもしないで開けると、椅子をくるりと回転させて女が振り返った。
 時刻は午後十二時五十分。
 保健室には女の他に誰もいなかった。
 女の桜色の唇が少し笑んだ。
「また誰かにやられたの?」
「……開口一番それかよ、センセ」
「伊織君が保健室に来る用事なんて、それぐらいじゃない?」
 大人の魅力たっぷりの流し目。この女ならサマになる。
「入学早々藤崎君に担がれてきたじゃない」
「…………」
 睨み付けてやると、女は肩を竦めた。
 ほんの一月半程前の話だ。
 
 
 
 入学式やら何やらが漸く終わって、さっさと帰ろうと教室のドアを一番に開けた瞬間、体格の良い知らない男達に囲まれた。周囲には沢山大人も生徒もいた筈だが、誰もその男達の集団に近付こうとしない。俺だって避けたいところだ。しかしここを通らないことには帰れない。
 男達の隙間を抜けようとすると、「話がある。来いや」と言われ、引きずられるようにゴミ捨て場へ連れて行かれた。
 人気の殆どないゴミ捨て場に着くなり、男達は俺を乱暴に離した。理由を問う前に、木刀で殴られた。体勢を整える前に、背後から動きを封じられた。
 こんなことは初めてではない。小学校高学年ぐらいから、教師や生徒に何かと目を付けられ易かった。俺のふてぶてしい態度の所為だと父親は言っていたが、母親に言わせると俺が父親似だかららしい。それは兎も角、目を付けられる側としては甚だ迷惑な話だ。やられたらやり返すとはいえ、喧嘩で勝てるのは五分以下かもしれない。そもそもこの相撲やラグビーでもやりそうな巨漢達相手に、俺が太刀打ち出来る訳はないのだ。
 多分私刑執行のリーダーと思われる、痛んだ学帽のを被った男の蹴りが鳩尾に埋まった。
 その瞬間だった。正確には数秒前だろう。
『お主等! 何やっちょる?!』
 野太い声が響いた。
 男達より頭一つ分高い坊主頭の男のものだった。
 次にその声を聞いたときには、坊主頭の男が俺の顔を覗き込んでいた。
『見ない顔だな、お主。大丈夫か? 今保健室に……』
 どうやってこの輪の中心に来たのだろう。
 ……考えるのも面倒臭い……。
 俺と同じぐらいの背で、俺とは対照的にゴツい身体しているその男は軽々と俺を担ぐところ辺りで、俺は意識を手放した。
 
 
 気が付いたら、この女と藤崎遊庵と名乗る坊主頭の先輩が俺の手当てをしてくれていた。
『良かった、気が付いたのね。担任の先生に頼んで家に連絡入れて貰っているからもう少し待ってて頂戴』
 最悪だ。
 母親の涙目と父親の冷ややかな眼差しを思い浮かべ、ウンザリした。これから起こる喜悲劇は考えないでおこう。
 藤崎先輩は糸目を更に細めてうんうんと頷いた。
『それにしてもキレーな顔しちょるのーお主。顔が傷付かなかったのは不幸中の幸いというやつじゃな』
『こら、藤崎君』
 女は俺の顔を覗き込む。美人だ。スタイルも良い。こんな上物も珍しい。周りにいるそこら辺の女共とは違う。明らかに大人の女だ。しかし、それにしてもこの女の不安定な感情は何だ。俺みたいなガキでもわかるような、頼りない感じ。……痛みとは別のところで考えていることに呆れ返る。恰好は高校生でも、中身は中学生のままだ。
『そう怖いカオすな。この佐倉センセは保険医……』
 藤崎先輩は、開けているのか閉じているのか判らない目を瞬かせて、俺と女を見比べる。
『なんじゃ、見詰め合うのは二人きりのときにして欲しいがの』
 俺よりも女の方が動揺したようで、俺から視線をついと外した。
『馬鹿なこと言わないで頂戴。それより藤崎君、早く帰りなさい。もう下校時刻はとっくに過ぎているのよ』
『うむ、お邪魔虫はさっさと退散するのが良いかの!』
『藤崎君!』
 ……ここに怪我人がいることを、もう少し配慮して欲しい。
 藤崎先輩は俺に向かってウィンクを寄越した。細過ぎてよくわからなかったが、多分ウィンクだろう。
 色気はなかったが、味気はたっぷりで、俺はそれを嫌だとは思わなかった。
 
 
 
 春風が少しだけ開いた窓から入り込んできた。白いカーテンが舞う。
「……もうすぐ四時間目が始まるわよ。早く行きなさい」
 女はくるりと椅子を回転させてペンを走らせた。俺は眼中にないらしい。
 ないなら、無理矢理入れたくなる。
 最初に会った時の俺を見る目に興味を持った。それだけだ。この女の真意は何処にあるのだろう。中学のときに近づいてきた女共と一緒なのか。それはそれで文句はない。そういう年頃だし、こんな美人となら願ったりだ。
「加賀見の面を見るのにも飽きたからフケる」
 これは六割本音であった。加賀見の面は我慢するしかないにしても、あの退屈な授業には耐えられない。
「駄目よ、加賀見先生をそんな風に言っては」
「加賀見を眺めるぐらいならセンセにする」
「だーめ」
 女はまた椅子を回転させ、今度は立ち上がった。つかつかと俺に歩み寄る。切れ長の目は釣り上がっていた。そこには教師以外の色はない。
「放課後お茶淹れてあげるから戻りなさい。藤崎君から良い茶葉を貰ったのよ」
「お茶は別に欲しくない」
 近付いてくるなんて好都合だ。
 迷うことなく、口に言葉を乗せる。
「俺が欲しいのは、センセ」
 女は息を呑んだ。
「それも今すぐに」
 真っ直ぐに見詰める。
 女の視線が泳ぐ。
 そんなに困るのなら、拒めばいい。それすらも出来ないほど、本能に従うというのなら、それも良いだろう。
 所詮はこの程度。俺もアンタも。
 括られた髪を解くと、甘めのフローラルの香りがふわりと漂った。この匂い、割と好きだ。
「か、返しなさい! 伊織君」
 怒ったように女は言う。でも、目は相変わらずサカナのようだ。最初に俺を見たときのような、不安定な目。
 構わず腰を引き寄せる。
「見た目より細いな」
「……離しなさ……っ……」
 強引に唇を塞ぎ、舌で抉じ開ける。
 桜色のそれは弾力があった。
 丁寧にキスをしてやると、少し鼻に掛かった声が漏れた。この声も、好きだ。
 ……思った以上にハマるかもしれない。そんな予感がした。
 白衣を払うと、女はぎょっとした。俺を振り払おうと必死だ。暴れる女をぎゅっと抱き締めて動きを封じる。
「い……伊織君……」
「嫌か?」
 耳元で囁くと、かぁっと女の体温が上がった。
「そ、そうじゃなくて……」
「だったら構わないだろ。優しくする」
「だ、だから、そうじゃ……」
「好きなんだ」
 
 女は固まった。
 この瞬間、勝ったと思った。
 
「好きなんだ」
 重くて軽くて、何て便利な台詞だろう。
 
 チャイムが、鳴った。
 保健室のベッドの世話になるのは、これで二度目だった。
 
 
 何人の男がこの女のこの姿を見たのだろう。
 男が絶えないとか、全く関心がないとか、色々聞いたけれど、前者なのだろう。
「モモカ」
 名前を呼ぶと、女はサカナのような目を開けた。
 まだ始めたばかりなのに、もう呼吸が乱れている。
 
 惨めで哀れで救われない女。
 ……俺も同じか。
 
 不意に視界の端に気配を感じた。
 思わず振り返る。
 
 癖のある肩ほどの黒髪、分厚い眼鏡。
 この女、知っている。
 
 エシロユイリ。
 
 分厚い眼鏡の向こうに、驚愕と嫌悪と。
 それ以上の侮蔑があった。  
 


 
 
2.
 退屈な授業。
 退屈な先生。
 退屈な生徒。
 ……放課後は、保健室にでも行こうか。
 
 午後三時六分。
 
 携帯が無音でメールを知らせた。サクラかオウメかキョウコか、その辺りだろう。一瞬を永遠と信じた莫迦で嘘吐きな女共だ。何が「それでもいい」だ。そろそろ着信拒否にしてもいい頃かもしれない。
 その点、モモカはいい。割り切ってくれるし、それなりに娯しめるし、相性もいい。本音はどうなのかは知らないが、あのサカナの目をしている間は大丈夫だろう。ただ、問題なのは。
 左端の前から三番目に座る女子を見た。カーキ色のチュニックを着ているその女子は文字だらけの国語の教科書にシャープを走らせている。もっさりとした黒い頭が重そうだ。時々煩わしそうに髪を掻き揚げる。その仕草はどちらかというと、頭をガリガリと掻く男子を連想させた。
 エシロユイリ。
 あの一件の前にも後にも会話を交わしたことはないのだが、どうも具合が悪い。ひょっとしたら誰かにバラしているのかもしれないが、今のところその様子は感じられない。よっぽどショックだったのだろうか。疎そうだし。或いはよほど口が堅いのかもしれない。
 エシロユイリが国語の担当阿狭錐(あさぎり)を見ている。まるで盗み見るかのようだ。板書と見せ掛けて、阿狭錐の顔でも描いているのだろうか。エシロユイリは絵は上手いのだろうか。
 ……くだらない。
 もうすぐ授業も終わる。
 
 午後三時八分。
 
 
 
 掃除当番だった。
 面倒だが、仕方ない。
 
 入学早々喧嘩(向こうが一方的に売りつけてきたのだが)したからなのか、俺と話をしたがる男子は殆どいない。女子も一部を除けば俺を敬遠する。別に友達作りの為に学校に通っている訳ではないので、問題はないのだが、掃除当番のような集団行動を求められた時に、多少の弊害はある。
 まだ掃除をあからさまにサボろうとするヤツはいないが、手抜きは覚えてきたようだ。幸い担任の御酉取(おとりとり)の姿はない。モップは女子に全て取られてしまったので、机運びという肉体労働が回ってきた。
 丁度エシロユイリの机を運ぶと、国語の教科書がバサリと落ちた。同時に二枚の紙切れが飛び出した。拾い上げて元に戻そうとしたが、目に文字の羅列が入ってきた。
『なにも ないのよ
 なにが ほしいの
 なにも ないのに
 なにが のぞみよ』
『カラダ
 ノウミソ
 ゾウキ
 タマシイ』
『しぼりとったら
 あとはさよなら』
『ひとつ ひみつの
 ふたつ ふたりは
 みっつ みかいの
 よっつ よ○○○』
『あがないは そのちで
 くれないの いのちで』
 言葉の切れ端ばかりが書かれていた。……物騒な単語ばかりな気がする。 そしてもう一枚。横に伸びたパンダのメモ帳にそれは書かれてあった。
『Dear Mako?
 進捗状況お知らせぇ。
 ……ゴメン、ムリ! (←笑?)全然思いつかないんだよぅ。(泣)今もこうしてちまちまちまちまやってはいるけれど(只今捺(なっ)チャン授業真っ最中★)、ネタの神様が降りてこないんだよぅ。(大泣)だから、Makottyにはさ、Makoから謝っておいて♥ (←色気ナシだから、Makoにソコは任せた!)
 そういえば、ベース決まった? 私も(一応)探してはいるけれど、ウチのクラスの男子ときたら、全然ダメダメ。音楽のセンスが合わなくて! だって、この間昼休みに流れた“TRUE LOVE & TRUE PEACE”で盛り上がってるんだよ? 信じられんないっつーの! あのナマヌルイ歌の何処がいい訳? さっぱりわかんない。寄せ集めのアイドル集団に毒されている男に興味はなっしんぐ。
 ベースで思い出したけれど、やっぱり“椿の華”サイコー☆ やっぱり鶴シショーでしょっっ? やっぱりベースは鶴シショーをリスペク』
「ちょっと!」
 パンダが潰れてしまうほどの勢いで、紙を取り上げられた。見下ろすと、真っ赤な顔の女が肩で息をしている。カーキ色のチュニックを着たモップを持つ女。
 エシロユイリ。
「……悪い」
 思わず謝ったが、それだけで怒りは解けなかったようだ。
「“悪い”で済むと思ってるの? 冗談じゃないわよ」
 机に教科書ごと突っ込むお前の方が悪い、と思ったが、口には出さなかった。代わりに、
「趣味なのか? ソレは」
 突然、モップの柄が俺の脇腹を直撃した。流石に吹っ飛んで崩れることはなかったが、痛い。声をあげなかったのは、痛さそのものというよりは、プライド故だったのかもしれない。
「最低!」
 エシロユイリはそれだけ言い放つと、さっさと掃除に戻っていった。
「大丈夫? 伊織君」
 女共がワラワラと集まりだした。
「ちょっと、江代(えしろ)さん!」
 別の群れは、エシロユイリに詰め寄っている。
「保健室、行こうか?」
「歩ける? 大丈夫?」
 
 女共の群れは、サカナ。
 
 どんなけヘタレに思われているんだ俺は。入学式あれだけ派手にやられれば、そういう風に思われても仕方ないのかもしれないが、心外だ。喧嘩で負けた数の方が少ないのに。
 
 男共の群れも、サカナ。
 
 遠巻きに観ている男共は、奇妙な眼差しを俺に向ける。多分、羨望五分厭きれ二割五分嫉妬七割だろう。助けに来ることもないが、俺に喧嘩を売るほど度胸もないらしい。
 
「……大したことないし」
 この一言で終わらそうとしたが、質問攻めに遭いなかなか戻れない。女三つでカシマシイというのは、よく出来た漢字だ。
 向こうでは、エシロユイリが少々乱暴にゴミを集めている。俺に怒っているのか、掃除をしないクラスメイトに苛々しているのか、それはわからない。
 それにしても意外だった。
 オタク系で根暗な女だと思っていたのだが、実はそうではないらしい。……否、ある意味オタク系で根暗というべきか。だとしたら、俺も同類ということなのだろう。
 モモカに傷を見て貰おうかと思ったけれど、その前に音楽室へ寄ろうと思った。
 
 『椿の華』『鶴シショー』。
 
 エシロユイリの手紙が、アップライトよりもグランドピアノの音を欲しくさせた。
 
 『椿の華』『鶴シショー』。
 
 どちらも知っていて、俺の好きなものだった。
続く


あとがき

Rhapsody In Blue