コウカイ
著者 鏡 柘榴
 
 結局のところ、わたしでは駄目だったのだ。
 空になった右隣、まだ温もりが残っているベッドの中で、わたしは改めて悟った。
 

 
 昨日、不意に彼はわたしの家を訪ねた。外は大嵐で、彼はずぶ濡れだった。褐色の頬から雫が滴り落ちる。
「どうしたの、こんな日に」
 彼は答えなかった。元々無口な彼ではあるが、殊更に口を閉ざしているように思えた。
「寒いでしょう。入りなさい」
 彼は軽く頷いた。その紅い双眸に宿された、重く、強い決意を、わたしは瞬時に見抜いてしまった。
 前々から予感はあった。けれど、解りたくはなかった。
 解りたくはなかったのに。
 
 彼にタオルを渡した。彼は赤茶色の髪をタオルと一緒に乱暴に掻き回して水分を飛ばしている。その間に、わたしは彼の為に紅茶を淹れることにした。
 彼は紅茶が好きだ。もう少し正確に言うならば、彼は紅茶になれてしまった。わたしが紅茶しか出さないからである。
「ゆっくりしていって頂戴。父さんも母さんも大陸へ旅行中で家にいないから」
 相変わらず彼は口を閉ざしたままだった。
 紅茶を運び、わたしは彼の向かいに座った。
 林檎の香りがする湯気が好い。夏とはいえ、こんなに厚い雲が光を遮っていては、冷たい飲み物を出す気にはなれなかった。
「今日は珍しいわね。絵も持たずにわたしのところに来るなんて」
 彼ははっとわたしを見た。それも束の間、彼は視線を紅茶に落とした。
 彼は絵を描くのが好きだった。わたしは彼の絵が好きだった。花を描けばその繊細さを、人を描けばその本質を、彼は丁寧に写し取っていった。そして、コンテを走らせ、クロッキーを仕上げる鋭い眼差しをした彼も。
 何て大それたことを、と思わなかった訳ではない。彼はわたしよりも八歳も年下で、まだほんの十五歳なのだ。だから、いつしか醒めるのだろうと思っていた。否、願っていた。けれど、わたしの意思に反して、この気持ちは膨れ上がり、抑え切れなくなってしまった。
 今もこうして、彼と一緒にいることに昂揚感を覚えている。
「何かあったの?」
 わたしは尋ねた。それ以外、選択の余地はなかった。
 カッと稲妻が走り、遅れて雷鳴が轟く。
 彼は俯いたままだった。時々口を開いては、言葉を溜息に変えてしまう。
 問いに対する答えは、一つしかない筈だ。
 持っていたカップを受け皿に戻して、彼の言葉を待つことにした。
 ……どのくらい経っただろう。雨音の合間に、雷が幾度となく光っては咆哮を上げた。
 彼はゆっくりと顔を上げた。
 光が再び部屋を照らした。
「島を出る」
 消えそうなバスで、漸く彼はわたしに告げた。
 轟音が続き、辺りはまた静かになった。
「……そう」
 それしか言えなかった。
 彼がこの島を憎んでいるのは知っていた。伝承を盲信している彼の祖父は、この島で絶大な権力を握っていた。その祖父の命で――計略でといった方が正しいかもしれない――彼は生まれてきた。
 そんな彼は常に独りだった。両親は彼を養いはしたが、愛情を注ぐことはなかった。島の者達も、彼が何者かということで敬遠していた。彼自身は知らなかったが、彼以外の人間は知っていた。
 彼は竜の血を濃くひく胤、救世主の祖とされている者であった。
 獣の類は、その特殊な能力をより強くする為に、何代かに一度血族婚を行う。言い伝えに過ぎないが、それを本気で信じている者は存外多い。それに野望が加わり、この因習は過去にも行われてきたようだ。
 古の時代、幻獣と呼ばれていた者達は世界を支配していたという。過去の歴史をもう一度蘇らせようと躍起になっている最たる者が、彼の祖父であり、その為に自分の子供達を利用したのであった。
 幾ら因習とはいえ、血族婚は歓迎されるものではない。しかし彼の祖父は権力を振り翳して、眉を顰める者達を沈黙させてきた。
 無論、わたしは彼の両親が実の兄妹だということを知っていた。それでもなお、彼に惹かれていった。
 足掻く彼を救いたかった。
 それほどまでに愛しかった。
 けれど、彼はわたしの想いに気付くことはなかった。彼はひょんなことから、自分が何の為に生まれてきたのかを知ってしまったとき、断を下したのだ。
 古にしがみつくこの島から出て行く、と。
 彼を苦しめるこの地に留まれ、とどうして言えるだろうか。
「貴方がそう決めたのだったら、何も言わないわ」
 席を立ち、窓の外を眺める。横殴りの雨が、窓ガラスを叩きつける。
 視界が白くなった。
「でもね、わたしは貴方を」
 愛していたのよ?
 言い淀んだのは、単に雷鳴の所為だけではなかった。彼はわたしの言葉を何処まで聞いてしまったのだろうか。
 彼はわたしの傍にきた。わたしに倣って黙って窓の外を見る。
「……貴方はここでは満たされなかったのね」
 わたしと同じぐらいの背の彼を見やった。
 わたしの蒼い目が、彼の紅いそれと合う。
 彼の目に鈍色の迷いを見出した瞬間、わたしの想いは弾けた。
 まだ間に合う――淡い期待と、鮮やかな思慕と、深い欲情。
 手を伸ばし、わたしと同じ色の頬に触れる。彼の頬は少し冷たかった。
「ヒ……ルダ?」
 少年は乾いた声を上げた。
 その声の発信源に、わたしはゆっくりと口付けをした。抉じ開けるように舌を這わせて。
 本当はキスの仕方なんてわからなかった。ただただ夢中で、今は、期待を、思慕を、欲情を現実にしたい――それだけだった。
 彼から離れると、彼は呆然とわたしを見つめた。浅い呼吸を繰り返し、僅かに上気した顔で。
 わたしの昂りが行動に変わる直前、彼はわたしを思い切り抱き締めた。
 華奢だと思っていた彼の身体は意外に逞しかった。厚く、熱いその身体は、わたしの気を狂わせてしまった。期待よりも思慕へ、思慕よりも欲情へ。
 貴方はもうわたしから離れてしまうの? どうすれば、貴方を引き止められるの? ……引き止められないのならば、せめて今だけでも……。
 ああ、どうしたら、どうすれば……!
「ヒルダ……」
 再び名前を呼ぶそのバスには、狼狽はもうなかった。
 顔を上げると、そこには紅い瞳の青年の姿があって。
 縋り付くように、唇を貪った。
 

 
 ……雨は上がってしまったのね。
 寝返りを打つ。先程までは褐色の背中があったのに、今はもうない。
 自分の愚かさに軽い苛立ちを覚え、傍のライティングデスクの抽斗から煙草を取り出した。彼には教えていない、わたしの悪癖だ。
 ゆっくり煙を吐き出すと、少しは落ち着いた。この傷みと一生付き合うのだろうな――そう思うと、苦笑いが零れた。
 彼は、無事船に乗れただろうか。……頭脳明晰で刀の腕に長けた彼のことだ。きっと大丈夫だろう。
 大陸は彼に何をもたらすのか。失意や挫折であっても、彼が陰鬱なこの島に戻ってくることは、二度とないだろう。因習に囚われたままの、わたしを残して。
 この島を憎んでいた彼には言える訳がなかった。もし、貴方ががこのまま言いなりになっていたら、わたしと結婚させられていただなんて。わたしの父母も、貴方の両親と同じ境遇に置かれていただなんて。
 それでもなお、わたしが貴方を求めたのは、決して運命ではなくて、意思によって選んだこと。無様な姿で縋り付いたのも、意図的ではない。……もし暴露したら、貴方は酷く怒るだろうか。憤りを超えて殺意さえ覚えてくれただろうか。それはそれで、わたしにとっては本望だったのかもしれない。
 もう、お終いにしよう。最後に彼は、わたしをほんの少しでも愛してくれたのだから。これ以上を望むというのは酷というものだ。
 
 彼に幸多からんことを。
 彼は大陸に渡って生きて、わたしはこの島で朽ち果てる。
 それで、良い。
 
 わたしにとっては、これで何もかもお終い。
 けれど彼にとっては、それが始まり。


あとがき
企画一番乗りな鏡です。
 
実は、巨大チョコレートパフェを食べながら失恋から立ち直るコメディータッチ? な話を出す予定だったのですが、あら不思議。
滅茶苦茶シリアスでしかも暗い話になりました。
巨大パフェの話は……機会があれば……でも一生なさそう……。
 
最後まで読んで戴き、有難うございました。

Rhapsody In Blue