ムカシノオトコ
著者 鏡 柘榴
 
 わたしとしたことが……。
 思わず唇を噛んだ。
 今日は、暖人(はると)さんとデートの約束をしている。午後二時半、屋内ショッピングモールの一階、太陽の広場に設けられている、エレクトーン前のベンチに――の筈だったが、どうやらわたしは、手帳の先週のページを見たらしい。
 何と午後一時に、わたしは約束の場所に着いてしまったのだ。
『どうしても外せない用事があるのです。申し訳ないのですが、来週は二時半に会いませんか?』
 冷静になった今では、彼の台詞まで思い出せる自分が何とも情けない。
 一端帰って出直すのも手だが、それは面倒な気がした。それで、わたしは一時間半をショッピングに費やすことに決めた。
 日曜日ともなれば、普段よりも人が多い。それぞれの仕方で休日を楽しんでいるのだろう。家族、友人、恋人、果ては独り身。幾つも荷物をぶら下げている人、手ぶらな人……。
 だんだん人を見るのも飽きてきたので、わたしはベンチから立ち上がった。
 まずは服を見よう。スーツ一着、というのも悪くない。それから靴。ミュールが欲しい。そういえば、そろそろルージュもなくなる。今度はオレンジを試してみようか。そういえば……。
 欲望とは尽きないものだ。だが、スーツとミュールとルージュを一気に買うほどお金を持ってこなかった。クレジットという手もあるが、わたしの主義に反する。優先順位を考えて、まずは化粧品が豊富に揃っている地下一階に足を向けようとしたその時だった。
「命華(めいか)?」
 男性の声でわたしの名前を呼ばれた気がした。大勢の人がこの広場にいても「メイカ」という人物がわたしの他に何人いるというのだろう。迷わず声の方を振り返った。
 中年太り、というには若い気がした。「太り」というほど太ってもいなかった。眼鏡をかけたスーツ姿のその男性は、わたしの顔を見ると、ニッコリ微笑んだ。
「やっぱり命華だ。……覚えてるか?」
 男性でわたしを「命華」と呼ぶのは、家族以外で過去に三人しかいない。記憶を手繰るのは容易だった。
「……会長?」
「おいおい、“会長”はないだろう」
 男性は苦笑した。
「せめて“先輩”ぐらいにしてくれないか」
「……そうね」
 わたしも苦笑した。
「暇ならコーヒーでも飲まないか? 奢るぞ」
 唐突の誘いに、わたしは些か驚いたものの、それを断ることは出来なかった。断るだけの理由が存在していなかったのだ。
「いいわ。但し一時間だけよ」
「仕事?」
「デートの約束」
 男性は面喰ったらしい。まじまじとわたしを見つめる。
 数秒後、男性は表情を崩した。
「わかったよ」
 
 
 
 きっかけになった台詞は、何故か今でも覚えている。
『付き合わないか』
 何処にでもある平凡な台詞だった。しかし、それを冗談ととったわたしの返答は平凡と言えるだろうか。
『正気ですか? 先輩』
 先輩の方を向いた。
 眼鏡の奥の双眸に力強さを感じ、わたしは押し黙った。
 西日の差す、生徒会室の空気が、先輩と私の間で止まった。
『俺は正気のつもりだが』
 決して大きくないが、弱くもない声に、わたしは首を縦に振ったのである。
 
 
 
 太陽の広場と同じ階にある喫茶店で、わたしはエスプレッソを、彼はウィンナーコーヒーを頼んだ。
「相変わらずね。そして砂糖をどっさり入れるんでしょ」
「成れの果てがご覧のとおりだ」
 彼は肩を竦めてみせた。
「仕事、何をしているの?」
「俺? 「茨木(いばらき)グループ」の営業部部長補佐」
「……相変わらずエリートコースまっしぐら」
 反応がやや遅れたのは、ニュースでも取り上げられるほど有名な企業にいることへの驚きとは別の種類であった。
「命華は?」
「小学校の先生」
「やっぱりな」
「どうしてそう思ったの?」
「命華は有言実行タイプだから」
 
 埋まることはないが、時間は確実に十年ほど前に遡っている。
 
 
 
 生徒会会長、弓道部部長、学年主席。
 彼の得ている「名」はこのようなものだった。
 それらを実力で得た彼を、わたしは尊敬していた。一般的に「恋」と呼ぶ、浮付いた、惚けた感情とはまったく違う。大体において、そんな感情を持ちたくはなかったし、持ってもいなかった。敢えて言うなら、わたしの「恋」とは「尊敬」というものに近いのかもしれない。
 だから、彼と付き合うことにしたのだろう。
 少女漫画の絵空事とは程遠いところで、わたし達の関係は始まった。愛を語るよりは学校行事の運営を話し合い、見詰め合うよりは、将来に目を向けていた。
 友人の麻箕(あさみ)は呆れたものだった。
『命華、小学校の女の子に恋愛のイロハからレクチャーして貰ったら? それか、あたしがあんた達の為に恋愛レシピを作ってやろうか』
 わたしは兎も角、彼は一つ年上の先輩である。女子の憧れの眼差しを集めている彼を「あんた」呼ばわりして、麻箕は容赦なく毒舌を振るう。
『あんた達、それで付き合っているの? 大体先輩も先輩だよ。まさか「生徒会副会長、女子テニス部副部長、学年主席」を好きになったんじゃないだろうな』
 流石のわたしも、麻箕のこの台詞には閉口してしまった。
 自分に自信があって彼と付き合った訳ではないが、不安に駆られたのは確かである。
 かといって、こんな質問を彼にぶつけるのは性に合わない。
「先輩は、わたしのどこが好き?」
 それこそ「イロハ」というものであろう。
 それに、その状態が不満ではなかった。彼の話は十分に説得力があり、面白味もあった。
 退屈はしなかったのである。
 
 
 
 エスプレッソとウィンナーコーヒーが運ばれてきた。
「ところで、プライベートは順調なの?」
 少し照れながら、彼は答えた。
「女房と、娘が二人」
 彼は早速運ばれたコーヒーに、砂糖を二スティック入れた。
「どうやら甘いものの所為だけではなさそうね」
「否定はしないが……手厳しいな」
 スプーンに合わせて、生クリームがくるくると踊る。
「せめて「ストレス太り」と言ってくれたら、救われたのに」
「そんなに茨木は大変?」
 軽い違和感を覚えながら、わたしはコーヒーカップを口元へ運ぶ。
「実力重視だから大変だよ。それに……」
「それに?」
「ほら、社長の独裁経営だろ? 社長は息子に後を継がせたいみたいだが」
「その息子が「財界の反抗児」」
「反抗児というよりは、むしろ問題児に近いな」
「……で、しょうね」
 彼は、わたしの笑いを堪えている表情を訝しく思っているかもしれない。
 構わずわたしは、エスプレッソを喉に流し込んだ。
 
 決して縮まることのない距離。かといって酷く遠い訳ではない。
 ただ道筋が違うだけなのだ。
 
「命華は……」
 彼らしくなく、言葉を切った。
 わたしは、顔を彼の方に向ける。
「今、幸せか?」
 
 彼が言う「幸せ」とは、道筋の先に見えるもののことだろうか。
 もう二度と交わることのない奇跡ではあっても、同じものを指すのだろうか。
 
 エスプレッソを飲み干した。
 笑みが自然と零れた。
 
「ええ、幸せよ」
 
「そうか」
 彼も笑った。
 
 
 
 別れたときの台詞は何だっただろうか。
 あまりのショックで覚えていないのならば、自嘲ものだ。
 そのときまでには、麻箕の言っていた「恋愛のイロハ」だか「恋愛レシピ」だかぐらいは何とか熟(こな)していた……と思う。幾ら絵空事とは遠いところで始まった恋とはいえ、彼もわたしも木偶の坊ではないから。
 覚えているのは、あの時も西日が景色を彩っていたこと。
 けれど、わたしは制服で、彼は私服だったこと。
 泣き崩れはしなかったけれど、暫く塞ぎ込んだので、あの麻箕が心配して、わたしを色々な形で励ましてくれた。
 
 始まりはあんなに鮮明に残っているのに、どうしてお終いの記憶はこんなにも朧げなのだろう。
 
 時間は動く。
 宛(さなが)ら、からからと回る映画のネガフィルム。
 
 
 
 ふと、腕時計を見ると、二時二十分を回っていた。
「そろそろ……行かなくちゃ」
 財布を取り出すと、彼はそれを制した。
「奢りだと言っただろ?」
 彼は伝票を持って立ち上がった。
 言い出したらきかない彼のことだ。それで、わたしは素直に礼を言った。
「じゃあ、またな」
 彼は笑顔でわたしを送り出した。
 だが、今日のように余程の偶然が重ならない限り、彼と会うことはないだろう。お互い現在の住所は疎か、携帯の番号もメルアドも訊かなかったのだから。
 それで良かった。恐らく彼もそう思っているだろう。
 だからわたしは笑顔で応えた。
「じゃあ、ね」
 
 
 
 太陽の広場にあるエレクトーン前のベンチで、縁なし眼鏡を掛けた若い男性がむっつりとした表情で座っていた。
「少し早……」
「メイ」
 わたしの声を男性の声が重なった。わたしを“メイ”と呼ぶのは、暖人さん以外にはいない。
「彼は誰です?」
 暖人さんの目は何処に付いているのだろう。思わず彼の顔を見返した。……不機嫌な彼の表情は崩れない。
「兵庫健輔(ひょうごけんすけ)先輩」
「とても嫌な響きですね」
 暖人さんの眉根が寄った。
「怒っているの?」
「当然です」
「何もないわよ」
「そんなことは知っていますよ。二股を掛けるほど、メイは器用じゃない」
 膝の上に乗せてあった読みかけの本を閉じ、暖人さんは上目遣いにわたしを見る。それが拗ねた子供みたいで、苦笑を漏らしたが、彼の眉間には皺が出来たままだった。
「偶然出会った昔の恋人、そんなところでしょう。そうでなければ、尊敬していた憧れの先輩辺りでしょうか」
「……鋭いわね」
「だから嫌なのですよ。それに既視感(デジャヴー)もありますし」
 そういえば、先輩の職場は「茨木グループ」の営業部だった。
「彼、茨木の営業部部長補佐ですって」
 と、視界の端に先輩が早足で広場を横切る姿が映った。
 先輩は何気なくこちらを向いて、途端に血相を変えた。
「父の手先ですか。ますます嫌ですね」
 無理もない。わたしの現在の彼氏は「財界の問題児」である「茨木グループ」の御曹子なのだから。
 先輩の反応はそこまでだった。すぐにポーカーフェイスに戻り、目的地へ向かって歩き出した。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るのです?」
「どうしてって……」
「メイが悪いなんて、これっぽっちも思っていませんよ。要するにこれは気持ちの問題なのです」
 わたしより五つ年下の彼は、わたしを諭すように話す。
「僕が彼に抱く嫉妬、という、ね」
 暖人さんのいつもの笑顔が戻ってきた、と思ったら。
「でも、メイが僕に対して償いたいと言うのならば、受け付けますよ。今日のプランは、勿論僕に一任してくれますよね?」
 …………。
「まさか、今から釣り?」
「さてどうだか」
 彼が浮かべているのは柔らかな笑顔だけど、先の尖った黒い尻尾がチノパンから伸びているのを、わたしは知っている。
「すごく嫌な予感がするんだけど」
「シルビアに乗り換えてくれば良かったかな」
「……随分と壮大な計画を立てていない?」
「当たり前です。今夜は帰しませんよ。ふふっ」
 人の往来が激しいこんな広場で、そんな台詞を恥ずかしげもなくさらりと……。
 冷房が効いている筈の場所で、顔を真っ赤にしているわたしに構うことなく、暖人さんは歩き出す。
「僕が何処まで本気かは兎も角、行きません?」
 肩越しに振り返った暖人さんの瞳には、悦に入ったものを湛えている。
 これ以上、悪戯(わるさ)を企まないうちに、と慌てて追い駆けた。


あとがき
第四回企画は何処へ? という質問はスルーする鏡です。
 
以前、オフラインで「お菓子フェアー短編集」(←たった今即興で付けた)を書いたことがありまして、今回の企画を聞いた時点で出品しようかと……え? 狡い? ……聞こえまセン。
いつものことですが、出来は兎も角、雰囲気を楽しんで戴けたら幸いです。
 
最後まで読んで戴き、有難うございました。

Rhapsody In Blue