可能性がある限り
 
 
 「好きです。付き合って下さい」――この台詞を聞いたことが何度かある。友人に言わせると「何度も」ということらしいけれど、俺にはどうでもいいことだ。
 
 
 
 数十年前のチョコレート業者の計略は、今では一大イベントと化してしまった。目からも耳からも入ってくるのはそればかりで、少々うんざりしてしまう。
 手渡されたり、置かれていたりしたチョコレート達を見やる。ファスナーが少し開いていたので目に留まったのだ。
「どうしたの?」
 ぎくりとして振り返る。
 そこには白いコート姿の貴女が立っていた。
 何かを言う前に、貴女は目ざとくバッグからほんの少し覗いた包装紙を見つけてしまった。
「幾つ貰ったの?」
 貴女の笑顔が少し怖い。
「数え切れないくらい?」
 貴女はそっぽを向いた。
「わたしからのは、要らないわね」
 肩越しに俺を見やるその目には、剣が放つ光があった。
 完敗。
 唇は動くが、出てくるものは何もなかった。
「……なぁんて」
 貴女の表情が和らいだ。
「行事って嫌いだけど、はい」
 そう言って、貴女は小さなブルーの包みをくれた。
「今食べてもいい?」
「どうぞ」
 丁寧に包みを剥がして、箱を開けると、お手製のトリュフが入っていた。
 貴女からのものを、他の何ものにも勝って食べたかったのだ。
 口の中に、甘さが広がった。
 
 
 貴女の剣が、実は少し嬉しい。
 貴女がその剣を掴んでいる間は、こうして貴女といられるのだから。


衣擦れ
 
 
 汽笛が鳴った。
 車輪は回り出す。 
 
 
 
 蔓のように、あなたの腕が伸びる。
 あなたの手は、いつもより熱っぽい。
 不安定なあなたの眼差しが、酷く痛い。
 
 身動きが取れないくらいに、縛り上げてくれればいい。
 或いは侵食するくらいに、暴露してくれればいい。
 
 でも、恐らく後者を選ぶのだろう。
 レールは急な下り坂。
 
 わたしもあなたも解ってる。
 動き出した車輪は、もう止まらないと。
 それと同時に、終点にあるのは、宝石ではなくて墓石だということも。
 
 それでも列車から降りないのは、あなたを失いたくないから。
 あなたは……どうして飛び降りないの?
 
 
 触手は器用に纏わり付いて、音と共に、引き剥がす。
 列車は転がるように、坂道を下りていく。
 
 その音は、やけに乾いていた。


苦痛と快楽
 
 
 何で切ったのだろう。左手の人差し指の皮が僅かに捲れていた。
 一気に剥がしてみたら、綺麗に取れた。
 血が滲んできて、思わず舐める。
 傷口が痛んできた。
 
 解っているのに、どうして手を出してしまうのだろう。
 
 
 
 貴女は言う。
『“わたし”だけを見て』
 俺は思う。
『どちらも“貴女”だ』
 貴女は否定をする。
『“彼女”も、なんて言わないで』
 俺は窮してしまう。
『“彼女”から、派生したのに』
 
 貴女は知ってか知らずか“彼女”を覗かせる時がある。
 激しい憎悪を買うと知りながら、それでも触れられずにはいられなくなってしまう。
 
 “貴女”の全てを欲するが為。
 
 
 
「どうしたの? 血?」
「ああ、いつの間にか切ってしまって」
「絆創膏あげようか? あ、水絆創膏というのもあるけど」
「……普通ので」
 
 この傷が治るのはいつだろう、と、ふと思った。


獣のように
 
 
 わたしが叫ぶと、光が放たれた。
 わたしが吠えると、刃が切り裂いた。
 
 欲しくもない紅い液体が、雨のように降り注ぐ。
 
 
 わたしの周りには、嘆きや罵りが絶えなかった。
 わたしが関わると、失くしものばかりが増えた。
 
 こんなことを、望んでいた訳ではなかったのに。
 
 
 帰りたい。
 でも何処へ?
 ないならば。
 還らせて。
 
 これ以上、足掻くのは、無様だから。
 
 
 森の奥深くへ行こう。
 独りならば、紅い液体も黒い言の葉も生まれない。
 
 でも、どうして。
 あなたは、静かにしてくれないの?
 あなたは、終わらせてくれないの?
 
 
 
 手首を見る度に、あなたを思い出してしまう。
 叱責を、悲痛を、そして愛情を。
「還れないじゃない……」
 呟いて、苦笑い。
 
 
 
 もしも、こんなわたしでも祈ることが許されるのなら。
 あなたが広げた大きな手に飛び込める勇気をください。


こねこ
 
 
 喩えるならば、ラグドール。
 
 
 
 目が覚めた。
 まだ夜だった。
 
 部屋の蝋燭が消えている。
 少し薔薇の香りが残っていた。
 
 微かな寝息が聞こえてきた。
 左腕の感覚が麻痺している。
 
 貴女がここにいるのだ、と思う。
 
 
 長い髪の毛をそっと撫でる。
 閉じられた瞼、長い睫がふわふわと。
 
 生まれた温度をほっと愛でる。
 寄り添った身体、柔らかくてくたくたと。
 
 
 ずっと夜であれば好い。
 貴女を独り占めしたい。
 この腕が壊れてしまっても。
 一生許してくれないとしても。
 
 この穏やかで静かな時間が続くのならば、それで好い。
 
 
 携帯を手繰り寄せて時間を確認する。
 残念なことにこれが現実。
 でも……もう少し大丈夫のようだ。
 安堵の息を長く吐いた。
 
 
 貴女の額にそっと唇を押し当てて。
 夢の世界への扉を、再び開くことにしよう。
 限られた永遠を刻む為に。

Rhapsody In Blue