雨に濡れて
あなたが初めてわたしを抱いたのは、土砂降りの雨の日だった。
不安だった。ただそれだけの理由だった。
あなたが再びいなくなってしまいそうで、そして二度と再び会えなくなるような気がして。
あなたの柔らかな笑顔も、力強い両腕も消えてしまいそうで。
だから、あなたを鮮明に覚えていたかった。
そこに、あなたへの愛は多分何処にもなかった。
雨が降る。
雨粒が窓ガラスを叩いては消えていく。
サンダルウッドのアロマが香っている筈なのに、スカルプチャー・オムを思い出す。
アンニュイなジャズをかけた筈なのに、雨音しか聞こえない。
こんな日は、雨に打たれているような気分になる。
雨よ、咎めるのならば、わたしを叩きつけて。
雨よ、戒めるのならば、わたしを掻き消して。
だけど、退くことは出来ないし、退く気もないの。
携帯がメールの受信を告げた。あなたからのメールだ。
行かなくちゃ。
コンポのスイッチを切って、キャンドルの火を消して、わたしは部屋を出る。
肩越しに部屋を見て……ドアを閉じた。
雨よ、それでもやはり。
この濡れた記憶を、そのまま洗い流して。
そして、消して。
祈り
笑顔でいてくれますように。
幼い頃からの願いは、今でも変わらない。
隣に貴女がいる。
目を合わせると、貴女は微笑んでくれる。
可憐さは昔のまま。
貴女の笑顔を見ると、口元が自然と綻ぶ。
けれど、それは真実か?
頭の片隅を鳴らす警鐘は、俺を苛み始める。
こうなることは、解っていたのに。
こうなることを、覚悟していたのに。
あの土砂降りの雨の日から。
「どうかしたの?」
「……何でもないよ」
貴女はふふ、と笑った。
「早くしないと、折角のエスプレッソが温くなっちゃう」
「そうだね」
喫茶店「ラルエット」の暖炉の炎が、パチンと爆ぜた。
鳩時計が三回鳴いた。
「あら、雪」
貴女が指した窓からは牡丹雪がちらほら見える。
今日は少し暖かいようだ。
「綺麗ね……」
ぽつりと呟いて、貴女はまたほんのりと笑んだ。
その瞬間、鳴り響くサイレンは吹き飛んだ。
やはり、貴女は笑顔が似合う。
だから、笑顔を独り占めしたい。
たとえ、偽りの笑顔だとしても。
いつか、真実を見つける迄の間でも。
それで、俺を捨てることになっても。
笑顔でいてくれますように。
鬱血
他人には知られないように。
わたしにはすぐ気付くように。
あなたは印を刻み付ける。
最初、それは赤いという。
けれど、わたしが見つける頃には、変色してしまっている。
それはまるで、褪せた紫陽花。
高圧線の鉄塔の足元を飾る沢山の紫陽花が、今年も咲いた。
忘れた頃に咲くこの花の青さが、しくりと痛い。
紫陽花を見ていると、何だか悲しくなる。
可憐な赤や黄達の花々と一緒にするにはそぐわないし、若葉に深みが増し加わるこの季節に、取り残された気がする。
だからこそ、愛しくなるのかもしれない。
痛む筈のない痣が疼く。
置き去りにされたこの印もまた、わたしには、かなしい。
晴れ渡った空と、目に眩しい緑と、傷を抉る紫陽花と。
今日は、もう少し一緒に歩いてみようと思う。
エロス
黄金の矢は、深く刺さった。
藤色の衣を纏った女神は、焼き金で俺の耳にその声を押し付けた。
貴女は古い古い歌を歌う。
それは遠い遠い魔法の呪文。
柔らかくて甘いそれは、痺れを覚えるほど美しい。
不意にその旋律が止んだ。
「……続けないの?」
「恥ずかしいわ」
「今更?」
俺の問いに、貴女は苦笑いを返した。
細いその肩を抱き直すと、貴女は俺に撓垂れて、また静かに歌い出す。
独りで紡ぐときの貴女は、目を閉じている。
クレヨンで真っ黒に塗り潰した世界を引っ掻いて、鮮やかな色を描き出す。
そして、目が開かれる。
星の輝きを閉じ込めたその双眸から放たれる生気!
その表情もその声も、何もかも……。
もしも矢が大量に打ち込まれても、この黄金の一矢には敵わないのだろうな、と思う。
例えその矢が鉛で出来ていたとしても、深く刺さったこの矢は、俺を支配して病まないのだから。
感覚がもう麻痺しているのに、女神は焼き金を俺に押し当てる――
おいで
妖艶さを漂わせるあなたの笑みが好き。
あなたの目がすっと細まると、わたしの心臓がどくりと音を立てる。
「飲む?」
珍しく、あなたはウィスキーボトルを棚から取り出した。
頷くと、あなたはニッコリ笑ってグラスを用意した。
「ポップコーンは合わなさそうね」
「肴は板チョコにしておくよ」
「ウィスキーボンボン……?」
わたしの言葉に、あなたは笑った。
コーラの代わりにウィスキーを。
ポップコーンの代わりにチョコレートを。
アクションの代わりにラブストーリーを。
映画に夢中になっている間に、蛇はあなたを支配する。
順当で典型的な結末を迎えて、エンドロールが流れ出した。
涙を拭いながらあなたの横顔を伺うと、あなたはこちらを向いた。
「大丈夫?」
「うん」
暫くあなたに寄り掛かり、映画の余韻に浸る。
黒しか映さなくなったテレビに、わたしとあなたが現れる。
あなたはそっと、わたしの肩を抱く。
あなたとも「順当で典型的」だったら良かったのに。
でも、それを捨てたのはわたし。
だから、蛇がわたしに咬みつくのを許すの。
再びあなたと目が合う。
あなたの目がすっと細まる。
わたしの心臓がどくりと音を立てる。
蛇の毒はじわりと回る。
あなたは唇を寄せる。
わたしは目を閉じる。
ウィスキーの味が強かった。
弄るように舌が絡まって。
縺れるように思考が止まって。
あなたに誘われて、崩れ落ちて――