風・葬
著者 鏡 柘榴
「無礼者! ここを何処だと心得る?!」
案の定、というべきか。悲鳴に近い女の叫びが聴覚を貫いた。
普通はそれよりも前に「どうやってここへ?」ではないだろうか? 何せここは最上階……などと悠長なことを考えながら、俺は馬鹿正直に答えた。
「オフェリア国王妃の部屋、ではないのか?」
女は言葉に詰まった。が、我に返ると自分の使命とやらに目覚めたようだ。再び叫ぼうとする女の口を塞ごうと、俺が動こうとした瞬間。
「エナメル」
天蓋付きベッドのレース越しに細いが威厳のある女声がした。その声は女の動きを確実に止めた。
「この者を許してあげて」
「ですがハイドレ……!」
「エナメル」
窘めるような口調に、女は口を結んだ。そしてやや暫くしてから呻くように呟いた。
「……ハイドレンジア様が仰るならば」
「有難う、エナメル」
エナメルと呼ばれた女は俺を睨めつけるように一瞥すると、部屋を出て行った。
少しだけ開いている窓から風が穏やかに通り抜ける。風は俺の漆黒の髪を揺らし、ベッドを隔てているレースを揺らした。
「会いに来てくれたのでしょう? もっと近くへ来ていいのよ」
レースの向こうから促されて、俺は躊躇いがちに歩み寄った。
人影が姿を現した。
絶句した。
最後に会った時、彼女は確かに華奢ではあったがこんなに痩せてはいなかった筈だ。
「久しぶりね、サイアン」
「はい、王妃さ……」
「ハイド、でいいわよ」
ふんわりと彼女は微笑んだ。痩せてはいても美しさは一向に衰えない。最後に会った六年前のままだ。
だが、彼女の言葉に従う訳にはいかなかった。六年前の関係に戻ることを意味するのだ。自制出来る自信はなかった。
「相変わらず黒しか着ないのね」
「私は……」
「『黒が好きだから』」
台詞を先取りされて、呆気に取られている俺に彼女は次々と俺の台詞をたしていく。
「『闇の黒は光や熱を引き立てる。溶け込むと穏やかで落ち着く』……だったかしら? 昔飽きるほど聞かされたもの」
「あのなぁ」
「やっとサイアンらしくなった」
「……」
どうやらわざと壁を作ることを諦めなくてはならないらしかった。が、思ったより自分が平静でいることも同時にわかって安堵した。
「改めて、久しぶりね」
彼女が小首を傾げると肩くらいまである金色の髪が僅かに揺れた。エメラルドの双眸に宿す光は弱いがあの時と変わらず優しい。
俺も昔のように彼女を呼んだ。
「……ハイド」
胸が締め付けられそうになる。掌を返したような心の動きに、沈着な理性は呆れ返った。
ふと、傍らにおいてある食器が目に留まった。食事中だったのだろうか。
「食事はいいのか」
彼女は力弱く首を振った。
「食欲がないのよ」
「少しでも食べないと……」
「サイアン」
侍女の動きを止めたように、今度は俺の台詞を遮った。
「わたしはあと少ししか生きられないみたいなの」
風が通り抜けた。
「お医者様の話だと治る見込みはなくてね……わかるのよ自分でも」
ハイドの口調は淡々としていた。死を感じさせないほどに。
予期していた言葉なのに背筋がぞくりと寒くなる。俺が彼女を訪れた理由はそこにあったのだ。
「……怖くないのか」
訊いて後悔した。死ぬのが怖くない訳がない。永遠という概念を持てるものが消滅を恐れない訳はない。例えその答えが「はい」であったとしても、その前には大なり小なり葛藤があった筈である。
ハイドはくすりと笑った。苦笑とも取れた。
「大丈夫よ、サイアン」
『王妃の容態が思わしくない』――街から吹いてくる風の便りを聞いたのはつい最近ではない。そして流れてくる噂はどんどん俺の望まない方向に膨れ上がる。ここ最近は「死」という単語さえ出てくるようになった。
噂を小耳に挟む度に苛立ちは増していく。耐えられなくなって、遂に彼女を訪ねることにした。合法的に彼女を訪れることは可能だった。俺は彼女の古い友達で、彼女の伴侶は俺の親友だ。だが、今の俺にはそうやって彼女に会えるほど心の余裕はなかった。
少々昔に遡る。
俺とハイド、そして彼女の夫のカディスは幼い頃からの友人だった。俺の父親が一文官として、ハイドの父親が一武官として城を出入りしていたことがきっかけで親しくなった。ハイドの父親は、俺達がまだ十にも満たない頃に隣国との戦で亡くなってしまったが、それでも付き合いが途切れることはなかった。
三人でよく城を抜け出して野原で徒競走したり、海へ行って砂の城を作ったり……そしてよく怒られたものだ。あの頃は無邪気だった。成長しても、流石にかけっこや逆立ちをすることはなかったが、付き合いは続いていた。
だが、その関係は六年前にピリオドを打った。
今でも忘れない。あの日も秋だった。今日とは違って冬に近い秋だったが。
夜、カディスの私室でワインを酌み交わしていたときのことだった。酒の味を覚えてからというもの、俺とカディスが飲むのは珍しいことではなかった。カディスは酒に強くなかったが嫌いではないらしく、俺をよく呼んでくれた。
その日のカディスは、今思えばの話だが、彼の適量を超えて飲んでいた。酔い潰れはしなかったが素面のときよりは口数が少なかった。カディスは元々饒舌ではないのでそんなに気にしなかったのだろう。
数杯目のグラスを空にして、不意に彼は姿勢を正して俺の名を呼んだ。俺も応じて姿勢を正す。
と、彼はゆっくりと口を開いた。
『結婚する、ハイドと』
耳を疑い、親友を見返した。彼のヘーゼルの瞳は酒気を帯びていたものの真剣そのものであった。
『実は昨日、プロポーズをした。……ハイドは頷いてくれた』
事実だと解った瞬間、波動が全身を駆け巡り、酔ってもいないのに嘔吐に近いものを感じた。
『……そうか。おめでとう、カディス』
感情とは裏腹に出てきた言葉は淡白だった。もし、素直に喜べたとしても同じ台詞しか言えなかっただろう。
ヘーゼルの瞳は何処まで俺を映せているのだろう。人の心を読むことは出来ない。それは彼も俺も同じである。
『有難う、サイアン』
彼は癖のある赤毛に手をあてて、照れたように笑った。
それがカディスとの最後の会話となった。
皇太子であるカディスは、王座を不動且つ安泰なものとすべく何処かの国の姫君との婚約などという柵があった。カディスがあまり語ろうとはしないので詳しくは知らない。が、どういう方法でそれを覆したのだろう。程なくしてカディスはハイドを妻とした。
「ねぇ、サイアン」
曇りのないハイドの眼差しは、真っ直ぐに俺を見詰めた。
「どうして今まで会ってくれなかったの?」
心臓がどくりと音を立てた。
「術師になる為? それならどうして戻ってきたときに顔を見せに来てくれなかったの?」
苛立ちさえ覚えて、俺は押し黙る。
本気で訊いているのか? 何故お前とこんな形で会っているのかを、そして六年……否、正確にはわからないがそれよりも前にお前に抱いたこの気持ちをまるで気付いてはいないのか? それともお前の時間は野山を走り回っていた頃で止まってしまったのか? そんなことはない筈だ。
現に俺は親の反対を押し切り術師という道を選び、カディスは王というレールを走り、そしてハイドは――カディスの妻になった。
あの幼い頃とは何もかも違うのだ。
ハイドは目を伏せた。
そしてぽつりと零れた台詞。
それから次々と彼女の口から溢れ落ちて。
ガラス細工の小さな釣り鐘形の鈴が風に吹かれて鳴っている。
その音色は秋風には少し似合わない気がした。
*
城の屋上から天を仰ぐ。本来なら太陽が空を支配する時間帯なのだが、今日は厚い雲が太陽を覆い隠し大量の雨を降らせていた。
視界を遮断すると雨音だけが耳に残る。
振り切るように目を開けてゆっくりと地を見下ろす。
雨に紛れるように馬車が城を出た。
葬列だ。
黒に身を包み、豪雨の干渉を受けないかのように隊列を崩さず整然としている。
棺の中に収められているのは、オフェリア国王妃――ハイドだ。
城に不法侵入したときから十日もしないうちに彼女の容態は急変した。医師の努力も虚しく彼女は眠るように息を引き取った、そうだ。
彼女の死を悼むには強すぎる雨だ。否、彼女を惜しむからこそこんなに豪雨なのかもしれない。
葬列は森の中を抜けて、王家の者が眠る墓へ向かっている。彼女はそこに眠らされるのだ。
そんなことをさせてたまるか。
強く唇を噛む。
お前に恨まれても構わない。いっそ、お前が俺を呪い殺してくれないか? それとも、最後に会ったときにお前が残したあの言葉を頭から信じた俺を嘲笑うか?
どちらでもよい。他の選択肢でも構わない。もしお前の霊魂とやらが存在していて、この状況を見守っていて、そしてあの言葉が真実なら……この呆れた計画を助けてくれないか?
こんな形でしか愛を伝えられないなんて。これならあのときに正々堂々と求婚した方が良かったのではないか。……我ながら度し難い、な。
苦味を伴った笑みが漏れた。
水分を含んで重くなった黒いフードを脱ぐことなく、手をかざし、呪文を一気に唱えた。
雨粒が集まる。透明な液体は黒色の龍へと姿を変えた。その背に飛び乗ると俺は行列に踊りかかった。
「何者?!」
問答など無用!
一直線にハイドの棺が載せられた馬車を目指す。
「術師か!?」
狼狽した兵士達に構うことなく龍は俺の命に従う。
雑魚には構うな。棺だけを狙え。
ところが龍は急にスピードを緩めた。
じゅっ、という音と共に龍は苦痛の咆哮をあげた。振り返ると龍の尾は千切れたように失われていた。
「城の術師か……」
口中で呟き、俺は再び水を集めて尾を再生させた。水から創り出している龍だ。再生させることは造作もない。
一時体勢を立て直すため龍を空へと昇らせる。雨が激しく俺を叩く。
気配を感じた。同時に龍は大きく左へと傾いた。
俺のすぐ右横を炎の塊が通過した。
炎の届かない空高い所で龍を旋回させる。
奇襲により葬列は動きを止めた。王を、そして棺を守ろうと兵士達が右往左往しているのだろう。無駄なことだ。
問題は兵士よりも術師だ。術師特有の気配から察するに、一人しかいないようだ。この雨の中、あれだけの炎を扱うとは厄介極まりない。尤も目的は戦いではないので、まともにぶつかる気もないのだが……。
一か八か。
黒龍を半透明の球体が包み込む。術で創られた結界である。そして彼女の棺を目指して再び急降下する。
炎の雨が降リ注ぐ。結界が音を立ててそれらを消していく。が、遂に炎が勝った。
結界が弾けた。
そして同時にバケツをひっくり返したような大量の水が葬列全体に落ちた。
今まで降った雨よりも多い水の量に、兵士達は疎か術師さえも対処する術を持ち合わせてはいなかった。
今だ!
龍は怯まず棺に近づき、遂に黒い棺を呑み込んだ。
あとはこのまま立ち去るのみ。
龍は西を目指し高度を上げる。
兵士達が正気を取り戻したときは既に遅く、俺は悠々とその場を去ろうとした。
刹那、一人の男と目が合った。
その男は馬車から降りて剣を手にしていた。空を飛べないことに歯噛みしながら鋭い視線をこちらに送っていたが、俺の正体を知るとヘーゼルの瞳を大きく開いた。
カディス。
最も親かった友。
そして最も憎かった男――
「サイアン……!」
カディスの酸味と苦味が混じった声が耳に残って。
森は急速に遠ざかった。
*
国内で一番高いシアン山の九合目は雲に覆われていた。いつの間にか雨は上がっていた。
龍はそこに棺と俺を残して、雲に紛れて消えた。
そっと棺を開けると、穏やかな顔のハイドが生前好きだった清楚な白いドレス姿で眠っていた。
抱き竦めてその青白い顔に口付けをした。酷く冷たかった。
ハイド。
何度も繰り返す。
ハイド。
ハイド。
返答は無論ない。
それどころかあの慈しむようなエメラルドの光が宿ることはもうない。ふっくらとした唇がほんのりと笑むことも、身体が温かな熱を宿すこともないのだ。そう、二度と――
彼女から身を離したときには、既に辺りは闇だった。指先にエネルギーを集めてそれを灯とする。
彼女は穏やかに眠っている。
灯を頼りにやや暫く彼女を眺めて……やっと重い腰を上げた。
ハイド、お別れだ。そして一番最後にした約束を果たすことにしよう。
もう一度だけ、キスをして。
指先のエネルギーを熱に変えて、彼女に触れた。
あっという間に彼女は炎に包まれた。
紅蓮の炎は、彼女が在ったという影さえ留めることなく燃え盛った。
その炎を睨めつけていると……目頭が熱くなってきて。
彼女が残したあの台詞を反芻しては、涙が溢れて止まらなかった。
*
激しかった火も夜が明けるころには燃え尽きた。
あとには理不尽なまでに真っ白な骨と、黒ずんだ宝石の残骸が残った。
用意した木箱に彼女だけを入れる。入れられるだけ彼女を詰め込むと、木箱と共に自らの足で頂上へと向かった。
シアン山の頂上は険しいことでも有名である。足元を少し覗くだけでも身が竦むような景色が広がっている。
崖の先端に立ち、木箱の蓋を取った。
片手一杯に灰を掴んで、その手をゆっくりと開いた。
ハイド、もう自由だ。何処へでも行くといい。
真っ白な曇天に真っ白な灰が舞う。
この風に乗れたら、山を越えた世界が見えるだろうか。
お前が望んだ場所へ行けるだろうか。
今頃カディスは国中を挙げて愛する王妃の亡骸を奪った俺を捕らえるのに躍起になっているだろう。そして慣習どおり王家の墓に埋めようとするのだろう。
もう叶わないことだ。ハイドは旅に出てしまったし、俺はオフェリア国に戻る気は毛頭ない。これから先のことは考えていないが、見知らぬ土地へ俺も行こうと思う。
この地であまりにも多くのものを失い過ぎたのだ。それも取り返しのつかないものばかり幾つも幾つも……。
また手から灰が零れ落ちた。
さらりさらりと風に流されて。
この世界から跡形もなく消えていく。
静かに、静かに、静かに。
あとがき
お初にお目に掛かります。
鏡です。
お題を眺めて……「何処か遠い国の悲しい物語」というイメージが出てきました。
無謀にもお題全部を入れてみましたが……全部発見できたでしょうか?
「運動会」は……大目に見てやって下さい。
最後まで読んで戴き、有難うございました。