伝言ゲームは続くのか?
著者 夏目 陽
 
 綾辻行人の登場と共に訪れた新本格ムーヴメントは、各所の評論を読むならば京極夏彦の登場と共に終わりを告げているとの見方が多いが、私は京極夏彦の登場を真の新本格ムーヴメントと考えたい。なぜならば、京極夏彦の登場により(これが認知されるのは清涼院流水が登場していこうだが)今までの本格ミステリの枠が大幅に広がったからである。京極夏彦以降を本格ミステリとして認めるのは近年のミステリ史でも大きな変化であろう。それを成功であったか、失敗であったかは筆者にもまだわからない。だが、それ以上に京極夏彦以降を本格ミステリと認めさせた直接の原因である、清涼院流水の登場は衝撃的ではなかったのだろう。これこそ新本格ムーヴメントが生んだ一つの形だったのではないのだろうか。
 清涼院流水の登場はある意味、日本社会の変化の象徴であるかのように評論では論じられることが多い。筆者もそれにおおむね同意している。しかし、それゆえに本格ミステリを愛する昔からのファンからは反感が多かった。筆者はそれをリアルタイムで見ていないのだが、議論のさわりだけを聞くと、筆者のような若者には、頭の硬いオジサンたちがそれを受け入られないだけ、だと感じてしまう。
 この感じこそ、時代の違いであると考える。今回は筆者のような若者は本格ミステリを愛することが出来るのか、そして先人からの伝言ゲームを続けることが出来るのかを考えていきたい。
 まず最初に筆者がなぜ《受け入られないだけ?》と受け取ったのかを考えてみる。これには東浩紀「動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会」が大いに参考になる。祖の中で著者は《ツリー型の世界》から《データベース型の世界》への移行を主張している。実際、2006年となった今から考えるに、それは実に的確なものだった。2005年の文壇界の変化として、俗に言うライトノベルというジャンルが市民権を得たというものがある。これは文壇界の一部が《データベース型の世界》を受け入れたこととしても、とても興味深い。文芸誌では度々、ライトノベルという文字を確認することが出来る。しかし、未だにそのライトノベルというジャンルの定義は曖昧である。ここでは筆者はとりあえず、漫画またはアニメ調の挿絵があり、特定の出版社から発売されている物と考えたい。ライトノベルというものはティーンエイジャーを読者の対象を目的とした小説と言える。実際に読者の大半はティーンエイジャーであり、ライトノベルはその読書層のために純文学やエンターテイメントとはまた違った工夫がされてきた。純文学やエンターテイメントは写実主義とも言える描写をしているが、ライトノベルは主に読者の想像にまかせるために、描写を出来るだけわかりやすく書かれている。内容も漫画の影響からか、わかりやすさやパターンのようなものを使用しているものが多い。だが、近年のライトノベルは漫画からの影響よりも同人ゲームやアニメの影響が顕著である。東浩紀が言及している《キャラ萌え》や《萌え要素》をいち早く取り入れたのもライトノベルというジャンルである。そのほか、ライトノベルがオタクの間で90年代流行った美少女ゲーム、ギャルゲー、ノベルゲームと呼ばれるものと近い構造を持っていたことも注目すべきである。そういう意味では最も日本社会のニーズに答えていたものだと思う。
 ライトノベルというジャンルは遡れば同人ゲームや漫画に辿り着く。さて、ここからはそれを取り入れた清涼院流水を含む舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新の脱格組(注、筆者が確認できたいわゆる脱格組は彼らだけですが、無知により他にも脱格組がいる可能性もあります)について論じよう。
 脱格組といっても、清涼院流水はオタク文化からはあまり影響を受けていない。それよりも漫画からの影響が顕著である。同時に舞城王太郎についても、これから述べる虚構重視の物語というよりも、現実的でもある。同時に舞城王太郎はミステリというものを佐藤雄哉や西尾維新とは違った方向で利用しているようにも捉えることが出来る。清涼院流水とも共通するのだが、ミステリの雰囲気を(たとえば密室であるとか、探偵であるとか)利用し、エンターテイメントとして仕上げようとしていると筆者は考える。あくまでそれは利用であり、それが中心ではない。清涼院流水や舞城王太郎はエンターテイメントを中心とし、様々なジャンルの雰囲気で何十にも包んでいるように感じる。清涼院流水はそれがミステリであり、ライトノベルであった。舞城王太郎はミステリと純文学のようにも感じる。よって二人は脱格組でも別物だと筆者は考える。
 では、佐藤友哉、西尾維新はどうだろうか。筆者はシリーズものとして、鏡家サーガと戯言シリーズについて言及してみたい。前者は壊れた家族の物語であるが、「フリッカー式」や「エナメルを塗った魂の比重」ではオタク系の話題を扱っている。佐藤友哉に関すればそれから、舞城王太郎の影響からか、徐々に純文学に倒錯していくため、それからライトノベル的な要素は薄れていく。だが、西尾維新は他の三人よりも徹底的に《キャラ萌え》や《萌え要素》を徹底化している。それゆえに「新青春エンタ」とも呼ばれるのかもしれない。
 なぜ、ミステリにこのような同人的要素が根付いたのか。筆者は新本格ムーヴメントに対するバッシングに原因があるように思う。つまり、人間が書けていないというバッシングに対して、新本格の作者はミステリだから人間を書く必要がないんだ。それよりもトリックやロジックが大事なんだと主張し続けた。そのため、人間を書く必要がないなら、漫画的な人間でもいいのではないかという考えが生まれたのだろう。それをいち早く取り入れたのが清涼院流水である。ある意味の開き直りにも聞えるかもしれないが、元々ミステリがそのような形体だったことも原因だろう。
 これを踏まえ、筆者がなぜ《受け入れられないだけ?》と受け取ったのか、それは現代の日本社会がすでにそれを受け入れるように出来ているからだ。筆者と同年代の人々はそれがすでにある状態で成長したため、それはあって当然という見方が出来てしまう。それにたとえばライトノベルによるオタクたちの中だけであった同人要素の流出などが考えられる。先人が嫌う《キャラ萌え》や《ロジック軽視》はすでに筆者の世代ではそれほど問題だとは思わないのだ。筆者はそのうち、脱格組の中でも比較的、ミステリをやっているように思われる西尾維新も本格ミステリになるのではないかと考える。
 筆者はここで綾辻行人以降から行われてきた原点回帰はすでに失われていることを主張する。今日のミステリは多様化と細分化が進んでいる。それは一人一人の個性が問われるような形体であり、他ジャンルよりも束縛の激しいトリック重視やロジック重視の小説は少なくなるだろう。そのようなものを書くよりも、京極夏彦以降の本格ミステリを書くほうが自由度が高く書きやすいのは事実であろう。
 だが、筆者はそれ以上に、今がミステリの充実期であることを不安に思う。綾辻行人以降の新本格作家というのは社会派が充実した時期を経験し、それに不満を持ち、自ら原点回帰を行ってきたものである。だが、新本格ムーヴメントが始まり、ミステリの充実期である今、再び本格ミステリを書く意味が問われるように思う。今の若者は意見を聞くとすでにパズルとしての本格は死に、京極夏彦以降の本格ミステリの枠が主だと言う。それに新しい価値観である脱格がある。つまりこれがどう言うことか、それはパズル要素だけの小説はすでにすべて先人がやっており、自分たちはそれよりも京極夏彦以降が広げた本格観である場所を書いていこうというものである。あまりにも充実しすぎたために、若者自身がパズル要素だけの本格ミステリを積極的に書こうとは思わないのだ。
 さらにこれに拍車をかける事実がある。今日、新本格があり、ミステリは潤っているように思えるが、古典に手を出す若者が少ない。綾辻行人以降の作家はしきりに古典名作を読んで欲しいと主張している。しかし、本屋などに行くと新本格に押され、古典はほとんど有名な作品を残し、消えてしまっている。若者の意見としてはその他、古典に限らず翻訳物は読みにくいということも原因の一つだ。また、日本の本格時代に活躍した作家の本が入手し難い状況にもある。これも新本格ムーヴメントの余波であるように思う。今までの意見をまとめると、今の若者には三つの伝言ゲームが失敗する要素がある。
(1)脱格を作った日本社会の構造を受け入れる体質をすでに持ち合わせている。
(2)パズル要素を重視した本格ミステリはすでに充実し、先人がすべてやり尽くしたと考えている。
(3)これからミステリを書こうとする場合、参考になるのは新本格作品であり、古典や日本本格の作品にはあまり触れる機会がない。
 これらの問題より、若者は本格ミステリを書くだろうが、パズル要素だけに限定した小説は衰退するだろうと言うのが筆者の考えである。だが、若者の中にもパズル要素を重視した本格ミステリを書き続ける人はいるだろう。かつて本格の冬の時代と言われた中で活躍した作家達のように。


あとがき

Rhapsody In Blue