私が愛したUFO
著者 夏目 陽
 
 ――しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。

〈レイモンド・チャンドラー 清水俊二訳『プレイバック』より〉
 
 
 
 家賃の安いことが取り得のこのアパートは、学生が住むにはちょうど良く、私は即決で契約を結んだ。
 窓から見えるネオンに揺られる街並みもどこか幻想的で気に入っていた。これでこの価格とは購入当時、私も掘り出し物を見つけたと喜々としていた。この頃、冗談で受けた東京の大学が合格し、真面目に受けたはずの地方大学がすべて不合格となり、早く住む場所などを確保しなければいけなかった。合格した大学があるにもかかわらず、それを蹴って浪人する気にはなれなかったためである。だから、家賃が安く、気に入ればすぐに契約するつもりだった。
 だが、いざ住んでみると防音はしっかりと施されておらず、隣の家族の会話から、生活音に至るまですべてが筒抜けだった。隣の家族はまだ私と年齢のさほど変わらない男女であった。私は、彼らは愛し合っているがゆえに、親の反対も押し切り、二人でかけ落ちしたのではないだろうかと考えた。事実、三日に一度は彼らの営みが行われていた。その妖艶かましい声が夜な夜な響くと、私は寝たくとも寝付けなかった。隣から聞えてくる声は金縛りよりも私を震え上がらせた。
 そのことで一度、私の部屋の上に住んでいる同じ大学に通う同級生、沢崎和成に相談してみたことがある。彼は私の手に二つ、合成ゴムでできた塊を渡した。「これは何だ?」と私が尋ねると、彼は両手の小指を耳に入れた。そうしてにっこりと微笑んだのである。私は、聞かないふりをしているのだろうかと一瞬、憤慨したがすぐにそれが間違いだということに気づいた。彼は、私にそれの使用方法を教えていたのだ。二つの合成ゴムの塊の正体、それは耳栓だった。
 それというものの、三日周期で行われる彼らの営みを億劫になることはなかった。私は毎日、耳栓をして床に就くことを心がけていたからだ。
 ちょうどこの頃、和成がゲイであることを知った。ある日、彼は私を自分の部屋へと誘った。試験最終日だったので打ち上げでもやるのかと私は思っていた。実際、彼が用意したビールが卓状に置いてあった。私たちは普段、音を立てないような生活を心がけていたが、その日ばかりは違った。私は缶を五本、和成は七本を空にした。私は、四本目で駄目になっていたのだが、そのときすでに酔いが回っていた和成に、「四は悪い数字ですよ」と言われた。彼自身、ラッキーセブンまで飲んでいた。私は、彼にあおられると五本目を一気飲みした。それが駄目押しだった。体が沈んでいく感覚が脳を支配し、その場に倒れてしまった。
 それから私が起きたのは、体に重みが加わる感覚があったからだ。頭が重く痛んだ。私は、私の体に乗っている重みの原因を振り払おうと、右手で払った。しかし、そのものが重過ぎるゆえか、その程度のことではそれを払いのけることができなかった。私はそれを不審に思い、痛みを感じながらも目を開けた。
 私の体に乗っていたのは和成だった。彼は私のシャツのボタンを外していた。それだけならまだ、介抱してくれるのだろうかと勘違いする余裕があったのだが、彼は全裸だった。私は声を上げた。私は驚いていた。だが、彼は私以上に驚いていた。私はその隙を見逃さず、軋む体も気にせずに馬乗りになっている彼から逃げ出した。私は壁を背にして、「何しているんだ?」と訊いた。
 彼はそこで自分はゲイだと認めた。私はもう少し言い訳をすると思っていたので拍子抜けしてしまった。そして、「このことは誰にも言わないでくれ」と言った。「もしも、ばれてしまえば、学校に行けなくなる」とも。
 私は、そこですべて彼の行動を許したわけではないが、彼に「このことは言わない」と言った。私自身、彼の性格はそれほど嫌いだとは思っていなかった。それにどこかで四十人に一人はゲイがいると聞いたことがあったからだ。彼も別に差別するべき人間でないのは、わかっていた。
 大学では毎日、学校とアパートを往復する生活にも飽き、何かサークルに入ろうかと考えた。幸い、手元に浮ついている金もあったので多少、金のかかるサークルでもいいと思った。
 その頃、私は斎藤璃々子と出会った。ここで“出会った”という言い回しは正確ではない。正確には、初めてゼミに参加し、その後の飲み会で彼女と話したことがあった。彼女はそのとき、私にエネルギー保存則が量子論によって成立すること教えてくれた。しかし、私は前もって予習するなんて気はなかったので、彼女の話を理解できなかった。後で知ったのだが、彼女が語ったことは十二月頃に勉強する範囲だったそうだ。
 ただ、それから彼女と話す機会はあまりなかった。彼女とは物理のゼミ以外同じではなかったからである。それに、私はいつも講義室の端に坐っていたし、彼女はいつも日に日に髪の薄くなる教授の前で講義を聞いていた。
 そんな彼女と久しぶりに言葉を交わしたのは前期中間試験も終わり、徐々に学生が夏休み気分になっていく頃だった。その頃の内容は、位置の不確定性に関するBohrの論理の矛盾だった。
 私は教授の講義など聞く気もなく、愛読しているレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』を読んでいた。ノートは取っていたものの、話は耳に入っていなかった。
 その日の講義には斎藤璃々子の姿はなかった。彼女の指定席には別の丸っこい胴体をした男が坐っていた。一週間に一度だけ見る、彼女の後姿を私が求めていたのかどうかわからない。
 彼女が来たのは講義が始まって四十分ほど経ってからだ。彼女は私の隣に坐った。彼女の指定席はすでに坐られているし、前に行くのもそれでは他の人に悪いと思ったのだろうか。彼女は私に、「隣の席は空いているでしょうか?」と尋ねた。私は今まで読んでいた頁に忘れないよう栞を挟んでから本を閉じ、顔を上げた。私は彼女を下から見上げていたのだ。私は「空いているよ」と言うと、彼女は薄っすらと笑みを浮かべて隣の席に坐った。私は彼女に「ノート、見ます?」と言った。彼女は驚いたように、こちらを見てから「ありがとうございます」と言った。私が彼女の方にノートをずらすと彼女は眼鏡をかけた。銀色のフレームと比較的小さなレンズが彼女の顔を引き立てた。
 彼女は大学生によくいるコケティッシュなタイプの子ではなかった。それよりも流行を知らない田舎で育ったようなそんな、雰囲気があった。過剰に女の子を装わない彼女に対して私は好感を持っていた。そんな思索に耽けている私の隣で彼女は私のノートを写していた。私はまた、読書に勤しむことにした。
 やがて彼女はものの数分でノートを写し終えた。私は彼女からノートを受け取り、また板書にかかれたことを写していった。だが、内容は何も掴み取れなかった。
「ねえ、ここの講義、わかる?」
 私は彼女に尋ねた。真剣に教授の話を聴く彼女には悪いと思ったが、言葉が先に出てしまった。彼女はこちらを向き、その長髪を揺らして頷いた。私が唸ると彼女は、
「教えてあげましょうか?」
 と、私に言った。このまま講義を聴いていても内容を理解できそうになかったので私はその申し出を受けることにした。今まで読んでいた場所に栞を挟むと、私はそれを机の端に置いた。すると彼女がくすりと笑みを浮かべた。そして、
「マーロウですか?」と、言った。私は今から言い訳できるわけもなくしぶしぶ頷いた。すると彼女は『プレイバック』の一節を暗誦した。
「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない)」
 レイモンド・チャンドラーの名台詞群の中でも有名な一節だった。私もよく知っている。私自身も、その一節が好きになりチャンドラーに陶酔していったひとりだったからだ。
 それから彼女は私にBohrの論理の矛盾について教えてくれた。彼女は毎回、予習をしてこの講義に望むそうで私のようなただ単位をもらえればいいと考える学生とちがうことに気づいた。
 講義が終わると私は彼女をカフェに誘った。だが、あいにく彼女はこれからもうひとつ講義を控えているらしかった。私はそれが終わってからだったら良いのかと訊いた。彼女はやや控えめにも私に頷いて見せた。
 私は大学の図書館で時間をつぶすことにした。私の趣味といえば読書とボブ・ディランの曲を聴くことぐらいだった。だが、あのアパートでは周りを気にしてしまい、まともに音楽は聴けず、専ら上京してきてからは読書に傾いていた。私がまず行ったことは、レイモンド・チャンドラーの作品群を発表順から読みこなすことだった。しかし、それは入学時にはほとんど終わっており、今ではレイモンド・チャンドラーを読み返すと共に、ロス・マクドナルドの作品群を読み始めた。幸い、私の大学の図書館には海外のハードボイルドも置いてあり、本を買うお金に困ることもなかった。
 私は大学の図書館で一番目立たない席に腰掛けると、ロス・マクドナルドの『さむけ』を読んだ。だが、図書館の椅子は私の体に合わず、そちらの方にばかり神経を使ってしまい、内容が頭の中に入ってこなかった。余談ではあるが、私のアパートには家賃に似合わぬ安楽椅子がひとつある。本を読むとき腰掛ける椅子なのだが、その椅子で寝てしまうことも少なくない。
 私は内容が頭に入らないので一度、流して最後まで読んだ。最後まで見てふと、本の後ろについている貸し出しカードというものを見た。ぼうっとそこに書かれた名前を流し見ていると、裏側に彼女の名前、斎藤璃々子を発見した。借りた時期が五月なので、それから三ヵ月以上経っていることになる。
 私は、時間つぶしのために彼女の名前を探してみることに決めた。だが、彼女の読書の嗜好がわからなかったので、とりあえず海外のハードボイルド作品から当たってみることにした。すると、彼女の名前は、ハメット、チャンドラー、マクドナルドの全作品に見られた。
 私がちょうど、日本の作家はどうだろうかと思い、村上春樹の作品を手に取っていたとき、彼女が図書館に入ってくるのを見つけた。私は持っていた本を書架に置くと彼女の元へに行った。簡単な会話をすると私たちは図書館を出た。
 私の隣に女が歩くのは夢にも思っていなかった。私自身、同年代の女を毛嫌いしていたのは否めない。化粧で顔を偽り、冬場でも短いスカートを穿き、甲高い声で喜々としている彼女らを好きになれなかったのである。だが、斎藤璃々子は違った。
 私たちは駅前のカフェではなく、路地裏にあるような雰囲気の良いカフェに入った。上京してきたとき、一番初めに見つけたお気に入りの店だ。店内に入ると共に、木の匂いとボブ・ディランの曲が私たちを迎えてくれた。
 私たちはそこで他愛もない話を数時間続けた。私が田舎から上京してきたこと、その理由が冗談で受けた大学だったことを打ち明けると彼女は頬を緩ませ、笑い合った。彼女は、「私も富山から上京してきたんですよ」と言った。それから、私たちは趣味の話をした。読書はやはり共通の趣味でその他、彼女は中学校の頃に華道部に入っていたので、生け花が趣味だと言った。私も読書のほかにボブ・ディランを聴くことが趣味だと言う。それに付け加え、私の住んでいるアパートは防音がほとんど施されていないような状況で、隣の家の音が筒抜けということも打ち明けた。
 彼女の家は、大学の近くだと言った。電車通学の私にとってそれは羨ましいことだった。
 それから読書の話になった。私たちの好きなジャンルはハードボイルドであると共通していた。まるで運命のようだった。私たちはとりわけレイモンド・チャンドラーの諸作品について語り合った。私は、「女性でハードボイルドを好きな方って珍しいんですよね。大体は脇役に心奪われ、主人公には勝手にやっていればいい、という評価が多いんですよ」と言った。「それ、わかります」と彼女も微笑みながら同意した。
 お互いが語り終わると、時間はすでに八時近くになっていた。まだまだ終電までは時間があった。幸い明日は土曜日なので講義はなかった。
 それから私たちは晩御飯を洒落たレストランで食べようと思った。だが、この恰好でそういったレストランに入ることは躊躇われた。
「よかったら、ご馳走しましょうか?」彼女が私を誘った。そこに断る理由などひとつもなかった。私は二つ返事で了承した。
 彼女の部屋は私のアパートよりも洒落たものだった。彼女が、「散らかってますけれど」と先に断ってから私を部屋に入れた。
 そこは明らかに私のアパートよりも広く、そして綺麗だった。キッチンと一緒になっている居間には小さなテレビとベッド、卓状のテーブルがあり、もう一つの部屋は書庫がわりになっていた。
「それじゃあ、何もないですけれど、今美味しい料理を作るので待っていて下さい」私は頷くと、書庫になっている部屋に入ってみた。
 ずらりと並んだ本は五、六百冊ほどあるのではないだろうかと思われた。ジャンルはばらばらで共通点を見つけるのに苦労した。ただ、彼女が幼少時代から文学少女であったことは予想できた。
 書庫は数時間見ていても飽きないほどであった。その頃になるとこの書庫は入口側が比較的新しく、奥に行くにつれて古くなっているのに気づいた。その法則に従い私は一番古い本を引っ張り出してみた。シャーロック・ホームズのジュヴナイルだった。
 それから数分して、彼女が私を呼んだ。卓状のテーブルの上に簡単な料理が二人分あった。私たちは「いただきます」と合わせて言いながらそれを食べた。自分で作るよりも美味しかった。それからまた、他愛もない――専ら話題は本のことであったが、話を重ねた。
「そういえば、サークルとか入っているんですか?」彼女は私に訊いた。私は首を横に振った。「それじゃあ」と彼女は前置きし、「UFO研究会に入りませんか?」
 UFO研究会と言われ、私はそんなサークルがあっただろうかと不審に思った。そのことを彼女に訊くと「部員は私ひとりなんです」と言った。
「UFOが好きなんですか?」と私は訊いた。「そうなんです」と彼女は応えた。私は書庫の中身を思い出した。しかし、UFOに関するような書物はなかったと思う。
「どうですか? 入りませんか?」と、彼女は微笑みながら言った。私がここで晩御飯をご馳走になるために彼女の部屋に来たときと同じだ。断る理由なんてひとつもなかった。
「いいよ」私は彼女に返事をした。「ところで、内容は?」
「UFOのことをもっとよく知り、月に一度、晴れた日の夜にUFOを見に行くんです」彼女はそう言った。私は「面白そうだね」と、応えた。
 晩御飯を食べ終わると私は帰ろうと思った。終電まではまだ時間があったが、彼女の家に長居する理由もなかったからである。そのことを彼女に告げると、
「今日は泊まっていきませんか? 私、最近ひとりで寂しかったんです。話し相手が欲しくて」
 その言葉の先に何があるかなど、私は予言者などではないからわからないが、村上春樹の小説ならば、このまま彼女の部屋に泊まることになり、そして彼女としてしまうのだろう。別にそれも悪くない気がしたので、私は彼女の家に泊まることにした。それから私たちはまた話し出した。話題は彼女が提供してくれた。結局それは、夜中の三時まで続き、彼女はベッドで、私は書庫になっている部屋に布団を敷いて就寝した。どうやら、私を書いている作家は村上春樹ではなかったらしい。
 次の日の朝、先に目覚めたのは私だった。私が居間へ行くと彼女はまだベッドで健やかに眠っていた。朝日を浴びた寝顔が美しく、私はつい手を伸ばしてしまった。
 私は今なら彼女としてもいいだろうかと考えた。私自身、彼女に好意を持っているのは確かだったか、行為を持てるかどうかは自信がなかった。
 すると彼女は小さな声で唸りながら、起き上がった。寝起きだからだろうか、彼女の視線はどこか虚ろだった。その視線が私を捉えると、「私を抱いてくれますか?」と言った。寝ぼけた顔から発せられた言葉は、冗談としてしか受け止めることができなかった。
「抱く理由なんてないし、抱かない理由なんてない。別に抱いてもいいし、抱かなくてもいい」
 彼女は笑みを浮かべ、「マーロウみたいですね」と言った。実際、そんなことはない。私はまだ酒も煙草も吸えない十九歳だし、車を乗り回しているわけでもない。ただ、どこからか聞いたことのあるような台詞を言ったまでだった。彼女は続けて、「でも、それは間違いですよ」と言った。
「間違い?」私は尋ねた。彼女はベッドの上で体を動かし私の方を見た。「抱く理由があるんです。それは私があなたを求めているんですよ」
 私はそんな戯言を言う彼女の唇を自分の唇で塞いだ。それから私たちはベッドに倒れこむ。私は微笑んでいた。そして私たちは性交した。
 家に帰ったのは十二時を過ぎてのことだった。家に帰るとまず、玄関で和成に捕まった。昨日の夜、どこに行っていたのかを尋ねられた。そのとき思い出したが、昨日の夜は和成と飲む予定だったのである。彼はしつこく私に問い質し、挙句の果てに自分以外の男を作って遊んでいたんだ、と言った。私もそのとき、多少頭に血が上っていたので「ハードボイルドと生け花とUFOが好きな女の家に泊まって、朝からセックスしてたんだよ」と言い捨てて自分の部屋に入った。
 それから彼女とは時々連絡取り合う仲になっていた。そのたびに私は彼女の部屋に行き、彼女からUFOのことについての話を聞いた。彼女は喜々としてそれらを語った。始まりは歴史からだった。それからそのUFOには誰が乗っているのかだった。まるで講義の受けているような感覚だった。
 物理のゼミのとき、彼女の指定席は教授の一番前から私の隣に変わっていた。だが、依然として彼女は講義を聴くばかりだったし、私は読書に励むばかりでそこに会話はなかった。私の周りにいる友人も私が物理ゼミを終えると彼女の部屋に行って、性交しているなんてことは誰も知らなかった。ただひとり、和成だけはそのことを知っていたが彼がゲイであるということを言わないことと交換条件にしていた。
 夏休み、私は車の免許を取ることにした。彼女が突然、郊外に行きたいと言ったからだ。夏休みはそれと書店のバイトをした。出来るだけ苦にならなくて続けられるバイトを探したところそれしかなかった。実際、それは私の苦になるどころか、本の背表紙を眺めているだけでお金が貰えるので重宝していた。バイト代は車を買うために貯めた。
 免許は無事、取ることができた。私はバイトで貯めたお金と元々の貯金をあわせ安い中古の軽自動車を買った。それを彼女に見せると、「目玉焼きみたいですね」と言われた。確かに外見が白でナンバープレートだけが黄色なのは目玉焼きに見えるかもしれないと思った。
 その夜、私たちはその車に乗って人気のないところまで行った。車内ではずっとボブ・ディランが歌っていた。道はいつも彼女が指した方を目指した。そして、ついたのは小高い丘の上だった。
 彼女は車の外に出て、空を仰いでいた。私が「何をしているんだ?」と訊くと彼女は、「UFOを探しているんです」と言った。私は彼女の隣で同じように空を仰ぎ続けた。空はいつもなら見れないほど、澄み渡っていて、星々が輝いていた。私たちは寄り添い合いながら、朝まで空を眺め続けていた。
 だが、そんな彼女との連絡が途絶えたのは夏休みも終わり、講義が始まるあたりからだった。今まで休んだことのなかった物理のゼミを彼女は欠席した。私は気になって彼女の部屋を訪ねたが、彼女が出てくる様子はなかった。念のため、携帯から彼女に連絡を取ってみたが、彼女からの返信は送られてこなかった。
 それを和成に相談してみた。和成は別のゼミで彼女と一緒だった。和成の話ではそのゼミにも彼女は出席しなかったようだ。彼女の部屋にもいないということは、と私はそこで嫌な予感がした。私は自分の部屋に戻り、最近の新聞を読み漁った。だがどこにも彼女が事故にあったような記事は乗っていなかった。
 それから、彼女が私の目の前に現れたのは六日後のことだった。ただ、彼女は今までとは変わり果てていた。
 掛け布団を纏った彼女は何かに怯えているようにも、攻撃から身を守っているようにも見えた。彼女の瞳は焦点を結ばず、どこか空虚な先を見つめているようだった。その視線が私を捕らえた瞬間、私はおぞましき恐怖を覚えた。目を合わせてはいけない。そう思ったのだ。
 だが、彼女はそんな私に普段と変わらぬ声をかけた。
「こんにちは」
 私はその言葉に応えることができなかった。
 連絡の途絶えた数日間、彼女は実家に帰っていたという。父親が死んだらしい。彼女は実家で途方にくれている母親の代わりに葬儀の準備をしたそうだ。彼女はその仕事の多さに父親の死を悲しむことすらも忘れていたそうだ。そして、すべての仕事終えた彼女はやっと戻ってくれたらしいのだが、こちらに戻ってきた瞬間、急に父親の死が現実味を帯びてきたらしい。彼女は一晩中泣きはらしていたそうだ。だが、今はもう大丈夫で、また明日から講義に出席すると言った。
 しかし、私の目には父親の死によって彼女が受けた余波はそれだけのように見えなかった。彼女の中で何かがずれた気がする。今まで噛み合っていた歯車が上手く回らなくなってしまったような、そんな感覚。私は心配だったので今日一日は彼女の部屋で過ごすことにした。彼女の寂しさを紛らわすためならば、抱いてやるつもりだった。だが、彼女は掛け布団に包まったまま、微笑みながらUFOのことを語った。
 次の日、私たちは一緒に大学へ行った。大学についてからは別れたが、物理ゼミの時間になると私の隣に彼女は坐った。私はいつものように読書をしながら、時々板書を確認し、ノートに写していった。私は講義中ちらりと彼女を見た。
 彼女はノートを取らず、代わりに絵を描いていた。UFOだった。円盤型のそれは今にもノートから飛び出して宙を浮かびそうだった。「上手いね」と、私は言った。彼女は口元に笑みを浮かべながら、「これが私の父をつれていたんです。これは宇宙の端のそのまた端の惑星から来たんです。彼らは人を自分達の惑星へとつれていくんです」
 私はそれを冗談で受け止めたが、それを言った本人は真面目そうな顔をしていた。私の微笑みが徐々に苦笑に変わるのがわかった。そして、ついには笑うことも出来なくなった。
 その日から彼女は、会うたびにUFOのことを話題に出した。「UFOとは私たちを幸福へ導く象徴なんです。時が来ればすべての人間はそのUFOに連れて行かれ、宇宙を旅し、ずっと楽しい気分でいられる惑星につれていくんです。そんなUFOは絶対に晴れた満月の夜にしか出てこないんです。昼間に出てくるUFOはすべて嘘なんですよ。だって太陽の光は生命の象徴なのですから。生命は太陽の光を浴びて生きています。でも、満月の光というのは太陽の光を反射したものなんです。したがって一度、死んでしまった光なんです。だから、月の光とは死の象徴なんです。そんな負の感情がたまる中で、彼らは颯爽と現れるんです。負の感情を吹き飛ばし、私たちを救ってくれるんです。それも例外なく、全ての人間をです。だから、私はUFOを見たいんです」
 それを聞いたとき、私は体に衝撃が走った。それから彼女の言動は日を増しておかしくなっていた。UFOを見るためと言って、いきなり摩訶不思議な言葉を発してみたり、変な動きをしてみたり。そんな彼女から周りの人々は次第に避けるような行動を取った。
 やはり、彼女は何かがずれてしまったんだと思った。父親の死によって何かが致命的なずれを起こしてしまったんだ。私はそう思うと同時に昔、彼女が言った言葉を思い出した。
 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。)
 彼女は優しかった。私と時々、夕食を共にすることがあった。そのとき、私の悩みをそのUFO論で解決してくれた。彼女には確かに生きている資格はあったのだ。だが、彼女は何かずれてしまったため、しっかりしていることができなくなっていた。彼女は時々、布団に包まり、怯えた。それが突発的なもので、ゼミの最中にも急に講義室を抜け出したりしたそうだ。私はその言葉の通り彼女が生きていられるのか心配になった。
 紅葉が目に見えてわかる頃になると、満月の日を狙って彼女は私に、郊外に連れてって欲しいと頼むようになった。私は彼女の申し出を断ることが出来ず、そのたびに彼女をあの丘の上の野原に連れて行った。彼女は朝になるまで、空を見続けた。彼女は、「月の光は人間の体に負の感情を与えるんですよ。だから、狼男はいるし、犯罪にも関係があるそうです」と言った。そのためだろうか、まだそんなに寒くない季節にもかかわらず、彼女は厚着だった。
 私は彼女をここにつれてくるたびに、遠くなるような気がした。彼女がUFOばかりに気を取られ、私を忘れているような気がしたからだ。彼女が愛しているのは私ではなく、UFOのような気がした。
 私は空を見上げている彼女を見つめ思った。最後にキスをしたのはいつだっただろうか、最後にセックスしたのはいつだったろうか。別にそれらばかり求めているわけではないが、そういった変化に私は気になっていった。
 そんなことがたまったからだろうか。その日から十日後、私たちは始めて喧嘩した。始まりはささいなもので、彼女がいつものようにUFOの話を始めたことだった。
 私はもうUFOなんて聞きたくなかった。彼女の興味が一段と私から離れ、UFOへと向くことを危惧していたのである。私は無意識のうちに「もうそんな話はやめよう」と言っていた。彼女は軽く首を傾げながらも、「どうして?」と訊いた。私は「もう嫌なんだよ」と言った。そこから私は心の奥底に閉まっていた不満を爆発させ、彼女を厳しく批難した。言葉が口から止めどもなく、あふれてきた。私は最後に「いつまでもUFOなんか幻想に目を奪われているやつは嫌いだ」と言って彼女の部屋を出た。その夜は荒れた。和成の部屋で酔い潰れるまで飲んだ。
 和成はよき相談相手になってくれた。彼は彼女を病院へ行かせることをお薦めした。だが、彼女はそれを拒んだし、どこもおかしくないといった。〈例え歪みの中にいても……、中にいればいるだけ歪みには気付かない。だって、それが当たり前なんだもの〉と言うのをどこかで聞いたことがある。まさに彼女がその状況だった。
 それから彼女からへは近づかないことにした。物理のゼミは欠席した。彼女からの着信をボブ・ディランの歌が私に教えたが、全て無視した。私はそのとき、相当落ち込んでいたらしい。和成に何度も慰めてあげようか? と誘われた。当然、私はそれをすべて断った。
 その頃、和成は私を他校の子が来るコンパに誘った。私は断ろうと思ったが、そんなことはお構いなしに連れて行かれた。しかし、和成がコンパに行くなんて不思議だと思った。しかし、その疑問はコンパ会場に行ったら解消した。他校からは女性のほかに男性も来ていたのだ。和成の目は明らかにその男性の方に向いていた。
 私はそこで真壁千秋という子に出会った。容姿は派手な化粧、それに露出の多いを服を着込んだ私の嫌いなタイプの女性であった。だが、私と彼女はコンパが終わると自然に、一緒になっていた。お互いの携帯のアドレスを教え合うと、近くのレストランに入った。それから私は彼女と話をした。彼女は東京育ちらしい。家は両親の家からそう遠くない場所にあるが、あまり両親を好きと思っていないらしい。「趣味は?」と私は彼女に訊いた。「音楽を聴くこと」と彼女は答えた。私はそれを受け、「それじゃあボブ・ディランは聴くかな?」と尋ねると、「誰それ?」と言われた。どうやら彼女は日本のヒットチャートの上にあるような永遠の愛信じるようなことを歌うようなものが好きらしかった。彼女は「あと男とセックスするのが趣味よ」と言った。私は、「それはとても率直でいい趣味だね」と返した。そう言われると彼女の仕草一つ一つが妖艶で男にセックスを連想させる仕草が多かったからである。
「あなたは私としたい?」彼女は私に尋ねた。妙に女性を装う人が使うこえだった。私は「する理由もないし、しない理由もない」と答えた。「なら、しましょうよ」と、彼女は私を誘った。私は彼女の言われるがままに従った。この選択に罪悪感は感じなかった。
 軽く食べ物を胃に入れた後、私たちは適当なホテルを探した。別に料金の高さなど気にしていなかった。私たちは目についたホテルに入った。部屋は彼女が選び、お金は私が支払った。部屋につくと彼女はすぐさまシャワーを浴びに行った。私は二人が余裕で眠れる大きさのベッドに腰掛け、斎藤璃々子のことを思い出そうとした。だが、思い出すのは昔の彼女ばかりだった。
 彼女がシャワーから戻ってくると今度は私がシャワーを浴びに行った。少しの熱めのシャワーを浴びながら、私は今、何をしようとしているのだろうかと考えた。出会ってまだ、数時間の女性と性交しようとしていることをもう一度、深く考えたがやはり斎藤璃々子に対する感情は何も湧きあがってこなかった。
 私がバスルームから出ると真壁千秋はベッドの上でガウンを羽織って横になっていた。私も彼女に横に行く。私は彼女の横に寄り添うようにしていた。斎藤璃々子に寄り添ったときとは、何かが違った。
 私は彼女のガウンをゆっくりと脱がした。少しずつ彼女の肌が外気にさらされるたびに、彼女は鳴いた。その鳴き方が気に食わなかったが、別に行為を止めるには至らなかった。すべて脱がし終わると、しばし彼女の白い肌に見入っていた。体つきだけで言えば彼女は斎藤璃々子よりももっと魅力的だった。私はその首筋にキスをすると舌で彼女の肌を舐め回した。彼女は身をよじりながらさらに声を大きくし鳴いた。とても女性らしさを強調したか弱い助けを求めるような鳴き声だった。首筋への接吻をやめると私は彼女をもう一度、見下ろした。彼女はピアスをしたままだった。何となく私は、それを外さないでよかったと思う。そしてその思考に即視感を覚えた。確か、村上春樹の小説にもそのような場面があったように思った。
「どう? 私の体は魅力的でしょう?」彼女は恥らう様子も見せず私に言った。私は嘘を吐かず、「今までで一番魅力的だ」と言った。それから私は、私の唇と彼女のそれを合わせた。先ほどよりも優しい接吻であった。それを終えると彼女は私に忠告した。優しくなんかしないで、と。
 私は激しく彼女も求めた。彼女もそれに応えていたし、人生の中で一番良かったと思う。だけど、私にはどこか醒めた虚無感が漂っていた。
 それから私は、しばらく真壁千秋と連絡を取り合った。ボブ・ディランの歌は斎藤璃々子ではなく、真壁千秋の連絡を教えるようになっていた。私はそのたび、彼女の誘いに乗った。虚無感を振り払おうと無心に彼女と肌を合わせたが、虚無感は彼女と肌を合わせるたびに、大きくなっていった。
 和成に斎藤璃々子のことを訊いたことがある。彼女は講義をちゃんと受けているが、どこか視線は虚ろらしい。前までは講義に来ることに楽しみを見出していたのに、と私は思った。彼女がルーティンワークをこなすように講義を聞き、ノートを取っている姿を想像すると寒気を覚えた。
 If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.(しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている資格がない。)
 レイモンド・チャンドラーがマーロウを通していった台詞。もしも、これが当てはまるとするならば、私は生きていられないし、生きている資格もないだろう。なぜならば私は斎藤璃々子を無視し続けているのだから。私は立ち上がった。和成は驚いていたが、構っていられなかった。
 私は彼女の家に向かった。彼女の部屋のインターフォンを鳴らすと、彼女は扉を開けた。そして、私に言うのだ。
「こんにちは。UFOの話を聴いてくれる人がいなくて寂しかったよ」
 普段と変わらず私を迎えた。あの日を気にしているのは私だけだった。彼女は喜々としてUFO論を語った。「この世の悩みは全部、UFOが持っていくんです」と彼女は語った。
 私はそれから、物理ゼミの講義に出た。彼女はまた私の隣に坐った。彼女はそこで、「また郊外のあの野原に行きたいですね」と言った。そう言って窓の先を彼女を見た。雪が降っていた。
 私たちはその週の日曜日、車を走らせ、郊外に向かった。ボブ・ディランが夜に歌っていた。雪が積もり、道路が滑って運転には苦労した。
 野原には車は着けなった。その手前で雪が積もり過ぎて、車が進めなくなる可能性があった。中古で買った軽自動車ならばなおさらだ。私たちはそこからそう遠くないことを知っていたので、歩いてそこまで行くことにした。
 踏み出す度に足が雪に沈み込み、進むことが困難だった。だが、彼女は楽しそうに進んだ。靴の中まで雪が染みこみ、痛みを覚えた。そのたびに私は靴を脱ぎ、雪を払った。だが、彼女はそんなことをせず、まるで踊るように雪道を進んだ。私は歩くことに精一杯になり、途中腰を下ろしたが、彼女が「早く行こう」と、急かした。
 野原につくと、そこは雪景色だった。前、見たときとはまったく違った光景として私を驚かせた。彼女はまた空を見上げていた。空には銀色に輝く満月が懸っていた。その光が野原に積もる雪に反射し、まるで自らが光を保持しているように輝いていた。それはどこか幻想的雰囲気を醸し出していた。彼女はそれに満足したように「今日ならば、UFOが現れそうですね」と、言った。白い息はすぐに掻き消えた。彼女は空を見上げながら、得意げにUFOのことを語った。
「彼らの乗り物は円盤型というよりも、正百角形に近いような形をしているんですよ。彼らは私たちにとても友好的で、自分達の惑星を招いてくれるんです。そこは幸せに溢れているんです。すべてのものから解放されるんです。普段嫌になっている人間関係や、自分自身、仕事や遊びまで。だから、私たちはUFOを呼ぶんです。心の中で叫ぶんです。辛いんだ。もう太陽の光に浴びているのが辛いんだ。だから、そんな辛いものすべてから私を解放してくれ、と」
 彼女が宙に手を伸ばした。ぴんと伸ばした指先は何かを求め、掴もうとしているようだった。それが凛とした空気と相乗し、何か切実なものへと思った。彼女の細い指が震えている。それは寒さのためか。それとも別の何かなのか。私にはわからない。だけど、無性に彼女の肩を、その華奢で弱々しく、どうしようもなく脆い体を、私は抱きしめた。強く強く抱きしめた。彼女の体は冷えていた。冷たく、今にも凍り付いてしまうのではないかと思った。彼女の伸ばしていた右手に私の右手を絡める。一段と冷えている指先が、私の体温で温まればいいと思った。
「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」
 やさしい彼女には生きている資格がある。しかし、何かがずれてしまい、幻想を見るようになった彼女。UFOを求める彼女。それは現実から逃避し、幻想に溺れてしまいたいという表れではないのか。崩れていく彼女。日々ずれが大きくなることがわかる。しっかりしていてほしい。もしも、彼女だけで駄目ならば、私がしっかりし、彼女を支えることをここで誓う。
「マーロウみたいですね」彼女が言った。私を首を振った。「私は、マーロウじゃない。ただのちっぽけな、ほんとにちっぽけな人間なんだ。彼みたいにかっこよくないし、そんな台詞も言えない」彼女は私に体を預けた。彼女の体は私の腕の中にすっぽりと収まった。彼女はまだ空を見上げている。私も釣られて空を見上げた。
 もしも、この空のどこかに彼女が愛したUFOがいて、今も世界のどこかで苦しんでいる人を救い、自分たちの惑星に招待し、幸せを与えているのならば。
 私は彼女の体をさらに強く抱いた。彼女の輪郭を感じた。まだ、私の腕の中に彼女がいることがよくわかった。ただ、願った。神様がいるなんて信じない。そんな都合のいい願いを聞いていくれるものがいるとは思わない。だけど、私はこの空に、この満月に願ったのである。
 どうか、彼女を、
 私が愛した彼女を、
 どこにも、連れていかないでください。


あとがき

Rhapsody In Blue