そして誰もいなくなった
著者 夏目 陽
 
 私の友達だった小澤智恵が者でない物になったのを判断するのは、容易い事だった。
 彼女の臍の辺りから顔を出した蟲は血でどす黒く汚れていた。それを合図に、堰を切ったように彼女の体中から蟲が這い出てくる。生前、皆から羨ましがられていた大きな二重の瞳があった場所は、ぽっかりと穴を空けていた。本来そこにあるべき眼球はすでに抉られ、蟲達の餌になっていた。まだ中に蟲達が蠢いているのか時折、彼女の下腹部が脹れたり、萎んだりを繰り返している。血生臭さが踊り場中に充満し、眩暈を覚えた。私が目を瞑り、目の前の惨劇から逃避しようとするものの、僅かだが、確実に侵食する蟲達の音が、確かに耳腔の中で反響している。吐き気がし、思わず両手で口を押さえる。しかし、口の中から出てくるものは胃液ばかりで、本当に無くなって欲しいものがなくならない。喉にひりひりとした痛みを感じながら、私はプリーツスカートのポケットからハンカチを取り出して、手を拭う。私の隣にいた西村香織さんが心配して、声を掛けてくれたので、それ以上私は吐く事がなかった。西村さんの顔を見ると彼女もまた、吐き気を堪えているような仕草を見せていた。
 小澤智恵が蟲達に喰われた。これで二人目だった。
 
 私達は女子三人、男子二人の合計五人で町外れの丘にある病院へと向かった。私達が生まれる前から建っていたそれは、五年前に潰れてしまった。それから廃墟として町外れに佇んでいるのだ。そこは有名な心霊スポットで、時々オカルト系を扱う雑誌に紹介される事がある。私達は肝試しをする為に、そこへ向かったのだ。丘の上にある廃墟はそこから町並みが見渡す事が出来た。ぼんやりと輝く町の光は、まるで私達が別世界に迷い込んだような刺激を与えた。病院の壁にはたくさんの落書きがされており、それぞれが自己主張をしていた。しかし、私達はそれらよりも、病院の窓すべてに鉄格子がはめられている事が気になっていた。廃墟になる前は、戦前から精神病院として重度の患者を隔離する為にあったようだが、その風潮は現代から敬遠されていた。ただ大きいだけの監獄はすでに役目を終えたというのが世間の認識だった。そして、そのような認識がそこを心霊スポットとしたのだろう。
 私達は正面玄関から入ろうとはしなかった。鍵が掛かっていてそこから入れない事は事前の調査でわかっていた。ここの中に入る人は、正面玄関から右に少し歩いたところにある、緊急患者用の入り口から入るのだ。私達はそこから中へ入った。
 電気が止められている為に、明かりのようなものは一切ついていなかった。男子の持ってきた二つの懐中電灯を一つは男子が、もう一つは私が持った。私は懐中電灯で周りを照らしながら、奥へと進んだ。
 階段を上り、一番奥の部屋まで行ってみようという事になった。最上階の一番端、そこは情報で一番重度の精神病者を隔離していた場所だという事を知っていた。夜の病院は不気味で、物音一つしない為に私達の靴音がリノリウムの壁によく反響した。やがて最上階に着く。そこには一つだけ、部屋があった。扉を男子が押すと、金属同士が擦れ合う甲高い音と主に、暗闇が大きな穴を開けて私達を迎えた。中を二つの光が照らし出す。しかし、部屋はあまりにも広い為、それらだけではすべてを照らし出す事が出来なかった。
 私と小澤智恵と西村さんは正面の壁を見ていた。男子達はどこを見ていたかわからないが、しきりに懐中電灯の光が左右に動いていたのだけは確認出来た。私は懐中電灯を少しだけ下げる。すると、ぼんやりとそこにあったものの輪郭が明瞭となった。
 病院で使うような大きなベッドだった。白い塗装がされている鉄の骨格の上に、布団が乗っている。弾力を失ったそれは逆に、ここにいた人々の生活観を感じさせた。部屋にはその他、何に使ったかわからない器具が散乱していた。ほとんどが内部の機械を露出させ、埃を被っている。それらに私達は気味の悪さを感じた為に部屋の入り口まで戻っていた。思えばこれが運命の分かれ目だったような気がする。男子達はまだ奥の方を詳しく探していた。
 何故このような事になってしまったのか、私は結論として、部屋は暗かった為に周りで蠢いているものを発見するのが遅れたという点を挙げる。それは致命的だった。その場にいた全員が男子の一人が上げた悲鳴を聞くまで、その存在に気づかなかったのだから。
 懐中電灯を持っていた男子が悲鳴を上げた。耳を劈くそれは断末魔のものとなる。右手に持っていた懐中電灯が落ち、地面を照らした。私達はそこで蠢く大群を見るまで、彼の演技だとある意味楽観視していた。しかし、足元の大群と彼の顔から肉を突き破って出てきた蟲を見た時、私は例外なく息を呑んだ。彼の隣にいた男子は奇怪な声を上げながら、私達の方に逃げた。一人残された彼は、自分の頬から顔を出している蟲を確認してから、何故? という表情を作った。何故? それは、私達に問い掛けられているか、それとも頬から顔を出した蟲に向けられているのかは、わからなかった。なぜならば、次の瞬間、彼は膝から崩れ落ちたからだ。糸の切れた操り人形のように彼はリノリウムの床にひれ伏した。それを皮切りに彼は人間の形からただの肉塊へと変化していった。人肉を喰い尽くしながら進むその蟲は姿からはヒルのようにも見えた。黒く、丸い目が懐中電灯の光を浴びて輝く。あの鋭い歯が肉を突き破り、引き千切りっていると想像すると吐き気がした。まずは一人目の被害者だった。
 私達はその恐ろしい惨劇を見て逃げ出した。微かに蟲達に喰われている彼の声がしたが、私達全員はそれを無視した。あの蟲達が一体何なのか、理解する事も出来ずに走り続けていた。だが、蟲達は私達の存在を確認したのか、肉塊となった物を無視し、私達を追ってきた。蟲達の動きは予想以上に速く、気を抜けば追いつかれてしまうかもしれないと思った。階段に差し掛かると、私達の走る速さは落ち、蟲達の速さは増した。転げ落ちるように迫り来る。私はそれに焦り、速く、速く走ろうとする。しかし、蟲達は私達を追い詰めていく。その場にいた全員が逃げ切れない事を理解していたと思う。だから、私達が逃げ切るためには最小限の犠牲が必要だった。
 その時、小澤智恵が転んだ。焦りすぎて、足が縺れたのだろう。階段を転がり、落ちていったが幸い、踊り場で止まった彼女の身体の横を私達は通っていく。誰も彼女を助けるという気持ちはなかった。
「ああああああああ!」
 悲鳴が上がったので私と西村さんは一度だけ振り返った。丁度、小澤智恵が者でない物になったところだった。二人目の犠牲者だった。
 
 私達はさらに階段を降りる。蟲達は小澤智恵を構っているので、この隙に逃げてしまうという考えだった。私と西村さんを先頭に、男子が私達の後ろについている。階段には私達の足音を蟲達が小澤智恵だった物を喰い尽くす音しか聞こえなかった。次第にそれも聞こえなくなり、蟲達が群れを作って階段を降りている事がわかった。私が上を見ると、何千何万といる蟲達が、まるで雪崩のように階段を下りていくのが見えた。そして、私は喰われ尽くしだろう小澤智恵の事を思った。肉は喰われただろう。骨は砕かれたのだろうか。それとも骨すらも喰われ、跡形もなくなってしまったのだろうか?
 踊り場に表示されている階層を見る度、もどかしくなる。一階までまだなのか。まだなのか? 永遠とも思えるほどの時間を感じ、それでもまだ悠久に続いているような階段に私は眩暈と焦燥感を覚える。得体の知れない蟲達に追い立てられ、まるで私達が小動物で、蟲達が腹を空かせた肉喰動物ではないか。私は死にたくなかった。最初の男子のように、小澤智恵のように醜い骸を晒して死ぬのは嫌だった。階層が一階に近づく。三階、二階、一階!
 私達は緊急患者用の玄関に向かって走った。階段からは大量の蟲達が溢れ出ていた。その鋭い歯を私達に向けていたり、天に向かって突き立てていたりと、私はおぞましさを覚えるばかりだった。
 すると、私の後ろを走っていた男子がいきなり蟲達の方を向いた。私と西村さんはわけがわからず、その場に立ち止まってしまったが、彼の「早く逃げろ!」という言葉に押されて逃げた。私は彼の満足感に満たされたような顔を見て疑問に思う。彼は自分の命を捨ててまで、私達を助ける事に誇りを持っていたのだろうか? それはただの自己満足であり、自己陶酔に他ならないのではないだろうか? 所詮、私達や蟲達は彼を引き立たせる脇役でしかなかったのだろうか。彼がすべての主役で、私達は哀れな少女役だったのだろうか。私はそこで止まり、彼を見た。彼の顔の半分は蟲に喰われている。だが、それでも残った顔は僅かに、彼が微笑んでいる事を教えてくれた。主役に酔うのではなく、主役である自分に酔っている様に見えた。哀れという言葉が私の脳裏を過ぎったが、決して言葉にはしなかった。ただ、私は彼に対して死ねば終わりという意味を込めた視線を送った。蟲が胸の辺りから服を突き破って這い出ているので、彼はもう死んでいるのだろう。微笑みに歪んだ顔はどこか狂人のような雰囲気を醸し出していた。三人目の犠牲者だった。
 いつ蟲達が彼の肉を飽きるかわからない。私は先を走っている西村さんに追いつく。緊急患者用の入り口は後少しだった。だが、低い唸りと共に蟲達が迫ってきた。怒涛の如く迫ってくる蟲達の中心には半分になった彼の顔があった。それが蟲達の顔のようで私は怖くなった。
 蟲達は私達に徐々に近づいてくる。蟲達が速くなっているのか、それとも私達が遅くなっているのか。辺りはほぼ輪郭すらもわからない暗闇で、懐中電灯が照らす僅かな光しかない。その為、一寸先は闇という言葉が身に染みる。闇の先に何があるかわからないから不安なのだ。浮遊感。まるで不安定な地面に立っているような。何か落ち着かない。私達が進んでいる方向に出口はあるのだろうか?
 長椅子の間をすり抜け、私達は広い空間に出た。私達は奥に行きながら辺りを照らす。左右を照らし確認した後に正面を見た。確かに私の視界には外の景色が見えた。私は確かに確信したのだ。助かった!
 私は勢い余って硝子の扉にぶつかった。それは西村さんも同じだったようだった。私達はほぼ同時に扉を押した。
 
 硬く閉じられた扉はびくともしなかった。嫌な予感が私の中を、そして多分西村さんの中にも駆け巡っただろう。ここは正面玄関なのだ。私達はいつの間にか道を間違え、緊急患者用の玄関でなく、鍵の掛かった正面玄関に来てしまったのだ。後ろを振り向く。蟲達はそんな私達の状況を知っているか、それとも知らないかはわからないが、手加減はしてくれそうになかった。私は決断する暇もなく、本能で行動していた。それは西村さんも同じのようで、私達は咄嗟に壁伝いに逃げる。私達が丁度、方向を変えて、十歩ほどを数えた頃、蟲達は勢いよく正面玄関の扉にぶつかっていた。私達は冷や汗をかきながらそれを見ていた。私達と同様に蟲達も勢いがあり過ぎたのだろう。蟲に勢いの概念があるかどうかはわからないが。硝子の扉は歪に湾曲し、中央から放射状にひびが走っている。私達はそれらを見送ってからまた逃げる。すぐに蟲達が私達に向かってきたからだ。懐中電灯は蟲達の大群に呑まれてしまった。私達はお互いの輪郭がわかる程度の距離を保ちながら走る。しかし、さきほどよりも虫達との距離が大幅に縮まっている。私が一歩前に出ると蟲達は私の二歩分を進んでいる。少しずつだが確実に距離が縮まっていくのが感覚でわかる。そして、私達は出口の方向を知らないのだ。
 致命的だった。私達二人が助かる可能性は限りなく低いだろう。ならば、私が生き残るためにもう一人が犠牲になればいいではないか。
 その時、私の袖が引っ張られた。私はバランスを崩し、その場に倒れてしまう。私が咄嗟に顔を上げると西村さんがこちらを見ていた。西村さんは細身の体だが、そのどこから私を倒すほどの力が出てきたのだろうか。火事場の馬鹿力。或いは、生への執着心。私が彼女を睨みつけると、
「あたしはまだ死にたくないの! 貴女だってわかるでしょう。貴女は友達の小澤さんを見殺しにしたわ。自分が逃げる事で精一杯だった。これはそれと同じ事よ」
 私はすぐさま立ち上がり、走り出す。倒れた時に、右足を強かに打ちつけたので痛みが走った。だが、気にして入られない。私の倒れていた場所は既に蟲達が飲み込んでいる。私は残る力すべてを振り絞って西村さんに追いつこうとした。生き残るのは、私なんだ。
 私は西村さんの服を鷲づかみした。驚いたのだろう、彼女は私の方を向いて顔を顰めた。この死にぞこないが、とでも言いたそうな顔だった。
「それなら私だって一緒よ! 私だって死にたくないの。貴女が死ねばいいのよ」
 私は力の限り、西村さんの服を引っ張った。しかし、西村さんはバランスを崩しながらも、私のように倒れる事がなく、走り続ける。服を掴んでいる右手がじんじん痛み始める。爪が剥げたかもしれない。西村さんは私の手を振り払おうと必死になっていた。
「ちょっと、離しなさいよ! 逃げられないじゃない」
「貴女だけ逃げるなんて卑怯よ! 逃げるのは私よ。生き残るのは私なの!」
 私はもう一度、満身の力を込めて西村さんを引っ張る。彼女も必死に耐えているようだった。だから私は、彼女の両足に私の右足を絡ませた。私達の足はぶつかり合い、縺れ、一緒に転んだ。私は受け身を取る事も出来ず、床に叩きつけられる。それは西村さんも一緒だったが、転ぶ事を予測していた私は、それから冷静に行動した。しかし、彼女はそれを予測していなかったので、自分の置かれた状態を知り、パニックになっている。すぐ後ろには私達を喰らうだろう蟲達がいるのだ。
 私はパニックになっている彼女の身体を押した。それと同時に彼女を蟲達の大群が襲う。そして蟲達は私の鼻先で止まった。彼女の身体は蟲達に持ち上げられ、服の隙間からは大量の蟲が進入していく。彼女は叫び声を上げ、抵抗しているが、蟲達の数の前にはそれは無力だった。
「や、ちょっと、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。あ、あ、やめて。もうやめて。ねえ、どうしてあたしなの? どうしてあたしがこんな目にあうの? あたしが生き残るんじゃなかったの? こんな所で死にたくないよ。こんな気持ち悪い蟲達に喰われるなんて嫌よ。あんたが、あんたが喰われればいいんだ!」
 西村さんは私に手を伸ばしてくる。すでに顔の半分は蟲達に覆われ、蠢いている。素直に気持ち悪いと思った。私の方に伸びている手にも蟲が大量に絡み付いている。それらは彼女の皮膚に歯を喰い込ませている。すでに薬指と親指はなくなっている。人差し指も第二関節までなくなり、小指も蟲達が集っている。私に近づいてくる彼女の手は徐々に丸くなり、皮膚がなくなり、肉を露出し、血を流し、骨を出現させた。私はその光景に戦慄した。足が震え、手が震え、声を出そうにも声が出ない。立ち上がろうにも、力が入らない。額からは寒いのに汗が噴出し、胃からは胃液が競り上がってくる。酸っぱい味と臭いが私の喉と鼻腔を刺激し、さらなる嘔吐を呼び起こす。この悪循環が回り、回り、回り続け、次第に視界は霞がかる。唯一、私の視界から理解出来るのは、血で黒く染まった骨と、その周りに連なり、絡まる蟲達だけだ。
「あ……いやぁ……。こないで。こないで!」
 声が出た。私の叫び声に、伸びていた手は動く事をやめる。私は両足に力を入れた。叫び声を上げた事によって意識が覚醒したのだろうか、それとも本能が死への恐怖を察知したのだろうか、私は再び逃げ出した。蟲達は西村さんを喰う事に集中していた。
 しばらく走ると緊急患者用の入り口を抜けた。その時後ろを振り返ったが、蟲達が追ってくる様子はなかった。しかし、私の頭の中にはまだあの闇から伸びてくる手の映像が鮮明に焼きついており、蟲達が追ってこない事を理解しても走るのをやめることが出来なかった。いつしか私は木々が鬱蒼に茂る中に迷い込んでいた。真っ暗で、先が見えない。私はやっと立ち止まり、今の状況を把握しようとした。それがいけなかった。
 私は足元にいる存在に気づかなかった。立ち止まって、辺りを確かめている時、それは私の足元から現れた。私の足を伝って上に登ってくる感触。ざわざわとした感覚、おぞましい物が競り上がってくる感覚、そしてなにより気持ち悪い。私はおそるおそる下を見た。現実を直視した。
 あの、小澤智恵を西村香織を私以外の全員を喰った蟲達が私の足を這っている。私は必死に振り払おうとするが、蟲達は払っても払っても、這い登ってくる。何時しか蟲は払っていた私の手からも上ってくるようになった。身体中の感覚が研ぎ澄まされたような錯覚に陥る。すると次の瞬間、ちくりと刺されたような痛みを覚えると共に、妙な浮遊感が身体を包んだ。身体に力が入らなくなり、自分の身体が自分の物でないような感覚に見舞われた。その時、頭の奥に直接、言いかけるような声が響いた。
「だいじょうぶ。だあいじょうぶ」
 私は自分自身の体を見た。所々から血が流れ、皮膚が裂けている。そこから身体の中に進入する無数の蟲達。右腕と左腕を見ると、身体の内側で蟲達が蠢いているのがわかる。しかし、痛みはない。身体の中で蟲が喰い進んでいる感覚はあるものの、それを痛みとして理解出来ない。
「だいじょうぶ。だあいじょうぶ。痛くもないし、怖くもないです」
 怖さはなかった。痛みもなかった。あったのは浮遊感だった。どこまでも心地のよい浮遊感。身を任せると、意識が、身体が楽になった。
「――だいじょうぶ
 
               ――だあいじょうぶ
 
      ――いたくもないし 
                   ――こわくもないです
 
 ――だいじょうぶ
 
          ――だあいじょうぶ


あとがき

Rhapsody In Blue