さよなら、天使エンジェル
著者 夏目 陽
 
「さて、何故貴女が自殺しようなんて思い立ったところから、話を始めましょうか?」
 校舎は、橙色に染められている。無論、それはあたしのいる教室も例外ではない。南向きに作られた窓から入り込んだ夕焼け色が、教室の後方を彩っている。開け放たれた窓から吹き込む風も、心地よい。ただ唯一、批判点を挙げるとすれば、それは窓枠に腰掛け、今にも飛び降りてしまいそうな少女がいる事だろう。
 その少女の名前を湯本玲という。比較的、短く纏められている黒髪に、二重の瞳が印象的だ。肌の色と紙の色が対照になっており、よく映えて見える。異性はもちろん、同性でもはっとするような美貌の持ち主だ。性格も落ち着いており、今時の何かと騒がしいタイプの人間ではない。あたしの好みの性格である。あたしの友達にも数人いるが、とても頭脳明晰で、役に立つ人である。彼女も大多数に好かれていたはずである。あたしの友達にも似た雰囲気の人がいるが、あたしの友達の方はあまり人間を好んでいないようだ。多分、あたしの友達も少しだけ、心を開いたなら、もっと友達が出来るのだろう。
 あたしは制服の内ポケットから煙草を取り出す。学校では吸わない事にしていたが、今だけは例外だと自分自身の心に言い聞かせた。安っぽいライターを擦って、火を点ける。煙を肺に入れた。煙は最初以外、肺に入れないと決めている。何となく自分だけが吸っている事が落ち着かなく、目の前の彼女にも勧めてみた。
「貴女も吸う? 自殺前に吸った所で、地獄に堕ちる事はないと思うわよ」
 彼女はあたしの誘いを丁重に断った。断っている相手に無理矢理押し付けても意味のない事ぐらい、知っている。あたしは些かの居心地の悪さを耐えつつも、煙を吐き続けた。
「ところで」そう言って彼女が切り出した。「ルコちゃんって煙草、吸うんだ」
「意外?」あたしが言うと、彼女は頷き「意外」と言った。
「どうして、煙草なんか吸うの? 体に悪いんじゃないの? それにルコちゃん、まだ私と同じ十六歳でしょう? 未成年じゃない」と、彼女が続ける。あたしはその言葉を聞くと、自然に笑みを浮かべてしまった。彼女はあたしの笑みを指摘し「それは何故?」と、問い掛ける。あたしは昔の事を思い出しながら、貯まっている質問に答えた。
「昔ね、貴女と同じ事を質問した友達がいるのよ。それを思い出してつい、笑ってしまったのよ……。それじゃあ、質問に答えようかしら。
 まず、どうして吸うのか? これは簡単よ。煙草はあたしを落ち着かせてくれるの。冷静でなくなった時、あたしを冷静にしてくれるわ。それに嫌な事が会った時、不安な時、どうしようもなくなった気持ちを吐き出す時、それを煙に例えて吐き出しているのよ。それと、自分自身を抑える為にも吸っているわね。時々ね、あたしは人を簡単に殺してしまうかもしれないと思う時があるの。それこそ、鋭利な刃物で相手を刺すかもしれない。頑丈な紐で相手の首を絞めてしまうかもしれない。いずれにしろ、あたしはその時、徹底的に相手が苦しむ方法を取ると思うわ。その苦しむ姿を見て、あたしは満足すると思う……。話が逸れたわね。あたしはそれをしない為に自分自身を抑え込んでいるの。その時の方法が偶々、煙草を吸う事だったわけよ。後もう一つ、煙草の他にアルコールも考えたんだけれどね、あたし弱いのよ。それに酔うと気持ち悪いし、アルコール中毒になると手が震えるって言うじゃない。煙草はそんな事にならないから、少なくとも作業をする時の邪魔にはならないでしょう。
 次に体に悪いんじゃないか? それに未成年では吸ってはいけないのではないか? この質問は同時に答えるわ。まず、何故未成年が煙草を吸ってはいけないのか? それは法律で禁止されているからだわ。でも、何故法律で禁止されてしまったのか? を考えましょう。例えば、ここで『煙草は体に悪いから』という事を理由に挙げたとするわ。これは確かに事実よ。だけど、体に悪いだけじゃ、理由にならない事に気づかないかしら。煙草は自分の意思により吸う物だから、この場合自傷行為と考えるべきだわ。でも、日本では基本的に自傷行為は罰せられないのよ。例えば、自分の手首を切る人が最近増えているけれど、その事自体で罰せられたなんて聞いた事がないわ。故にこれはおかしいとあたしは考えた。だから、あたしは未成年でも煙草を吸うの」
 あたしの演説を彼女は静かに聞いていた。だから、あたしは「御清聴を感謝します」と言った。彼女はくすりと笑い、それから視線を空に向けた。あたしもそれに倣い空を見る。空が、雲が橙色に塗られている。普段はあまり意識をしなかったが、この校舎は市内の外れにあるので、比較的、あたしの住んでいる村と似た空を見る事が出来た。
「それじゃあ、私が自殺しても罰せられないって事?」
「そうね、貴女は誰かに罰せられるような事はしてないわ」そこであたしは本題を思い出した。いつの間にか本題から外れた話をするのはあたしの悪い癖だった。続けて「そろそろ話を元に戻しましょうか。もう質問はないでしょう?」
「一つだけ」彼女は言った。「最後に一つだけ。どうして私が、今日教室から飛び降りる事を知っていたの? だって貴女は私と話したことなんてほとんどないじゃない。話したとしてもそれは、必要最低限の会話だったはずよ」
「それについての答えは、そうね……。あたしの友達に自分自身の事を『観察者』だと名乗る頭の狂っている人がいるの。彼女はその名の通り、何かを観察しているわ。その何かが人間なの。彼女にとっての観察対象は人間、正確に言えば、有機物の塊には興味を示していない。彼女が興味あるのは、もっと形のない、いわば精神よ。心と言えばわかりやすいのかしら。彼女は常に他人の心がどうあるかを観察しているの。そんな彼女と時々話すんだけど。三日前だったかしら、彼女が『クラスの湯本玲が近い時期に自殺する可能性があるから、後をつけておいた方がいいわよ』と言ったの」
「何故、ルコちゃんにそれを言ったの? その『観察者』と名乗る人がすればいいじゃない?」湯本玲は足を所在なげにぷらぷらと揺らしていた。重心を教室側に掛けたり、外側に掛けたりと、窓枠を彼女の左手が掴んでいるのものの、危険な行為だという事は一目で理解出来た。こんな事をしているに何故、誰もこの教室へ来ないのかと考えたが、窓の先の景色は一面、金色の稲穂が揺れる田圃だという事に気づき、目撃者がいないのかと納得した。彼女もそれを知っていたから、ここから飛び降りようと考えたに違いない。あたしは煙草を携帯灰皿に押し込んだ。二本目を吸おうと考えたが、面倒だった。
「それは『観察者』のルールに反するのよ。『観察者』は常に観察対象に干渉してはいけない。それが『観察者』としてのルールなの。だから、貴女が自殺する予感を察知しても、決してそれを助けようとしない。『観察者』としての立場を貫く。まるで推理小説に出てくる名探偵のような人よ」
「どうして『観察者』はそこまでルールにこだわるの?」
「それは過去に『観察者』が『観察者』としての立場を放棄して行動した為に、取り返しのつかない失敗を犯したからじゃないの。あたしは詳しい事を知らないわ。
 さて、これですべての質問に答えたわ。それじゃあ、あたしの質問にも答えてもらうわ。あたしの質問は簡単よ。何故、貴女が自殺しようなんて思い立ったの? 答え難かったら、いつ、自殺をすることを思い立ったの?」
 湯本玲は右手で前髪を弄り出す。その行動がどういう心情の表れなのか、観察者はすべて理解出来ているのだろうか。ふいにそんな事を考えた。あたしは単純な事か、何年も見慣れた人ならば理解出来るが、全くの初対面で、しかも複雑な事を思われてしまうと理解出来なくなる。言葉から心情を探る事は得意なのだが、行動からそれを探る事は苦手なのだ。
 やがて、彼女は何かを決断したのか、重く閉ざしていた口を開いた。外から聞こえてくる部活動の掛け声で消えてしまいそうなほど、小さな声だった。
「初めて、自殺を考えたのはずっと前のようだった気がするわ。中学校の頃だったかしら、時々、死んでしまえば楽になるのではないかと考えるようになったの。でも、実際は行動に移す事が出来なかった。私がここに生きている事が何よりの証明ね。一度、果物ナイフを自分の手首に当ててみた事があるけれど、その時も当てるだけ、実際に切る事は出来なかったわ。だけど、その時確かに感じていたのよ。自分が自分自身の命を握っている感触を。果物ナイフを数センチ横に引けば、そこの皮膚が裂け、そこから生暖かい血が噴き出てくる。それがまざまざと想像できたわ」
 彼女はやや微笑みがちにそれを口にした。その笑みが恥かしさからくるものなのかはわからない。あたしがその先を促すと、少し間を置いてから彼女が再び話し始める。
「実際、こうやって飛び降り自殺を図ろうと考えたのは三日前よ。三日前にきっかけがあったわ」
 そこで彼女は一息ついた。話し続けるのは彼女には似合わない。あたしはそう考え口を意見を言う。
「きっかけ。例えば、クラスの好きだった男子を放課後、呼び出して告白したけれど、断られたから。例えば逆に、好きだった男子に放課後、呼び出されて喜々としていたけれど、指定の場所に言ってみるとそこにはその子の他に数名の男子がいた。そして、そこで男子達に性的暴行を受けてショックだったから自殺する。または友達関係の縺れから、すべてが嫌になった。いじめを受けていてもうこれ以上、生きていける自信がないから」
 全部的外れな意見だという事はわかっていたが、出来る限り沈黙を作らないようにする為、言ってみた。沈黙してしまえば、開きかけていた心の扉を閉ざす事になるからだ。湯本玲はあたしの意見に笑みで答えていた。自分の意見を笑われるのは些か、辛い事だが、元々的外れな意見なので、と自分自身を慰めた。
「使い古したような答えね。でも、一番、万人が納得する理由だわ。だけど、私達の学校は女子高じゃない。それに私が人間関係に困っていたり、いじめを受けていたりしていたと思う?」
 湯本玲の人間関係は良好だった事は一目でわかる。実際、あたしの友達に訊いても、人間関係で困るような人物ではないという評価が一般的だった。それに話し掛けるととても和やかに微笑んでくれるし、意見を求められても実に的確なそれを述べてくれる。友達からは何かしら必要な人間だと思われていたに違いない。
 あたしは否定を選んだ。彼女は「そうでしょう」と言うと、一呼吸置いて言葉を続けた。
「きっかけ。そうね……ただ、何となく『大人になりたくなかった』のよ」
「貴女のきっかけも十分、使い古した物だと思うわよ。そういう事は思春期のあたし達ならば誰でも考える事よ」
 あたしは立っている事が辛くなり、一番近くにあった椅子に腰掛けた。今、誰かが来たならば、ただ友達同士が会話しているだけと見られるだろう。湯本玲だって自殺するとは思われず、注意されるだけで済むだろう。もしも、そうなったならば、彼女は自殺する事をやめるだろうか? 彼女はぼうっと視線を泳がしてから、質問した。
「それじゃあルコちゃんも考えた事があるの?」
 彼女の言葉にあたしは同意した。「ええ、考えた事があるわ。思春期にある子供ならば誰でも一度は考えた事があるわよ。勉強する事を押し付ける両親。規則を馬鹿みたいに守らせる学校の先生。周りで好印象を持つ大人が少なくなっているのも事実でしょう。生徒から人気のある先生は若くて、あたし達に近い物を持っているから。思春期のあたし達にとって大人とは悪印象を持った年上ということなんじゃないの」
 彼女は含み笑いを浮かべながら、あたしを見ていた。あたしは「あくまであたしの考えよ」と補足する。「貴女の考えも教えてくれないかしら?」
「いいわ」彼女が同意する。窓枠を両手で掴み、重心をやや後方に置く。そうして彼女は空を仰いだ。今、手を離せば、三階の教室から落ちるだろう。あたしはいつでも立ち上がれるよう、椅子に浅く腰掛けていた。
「私が大人になりたくなかったのは、ああなるのが嫌だったからだわ。私達を理解しているような振りをして何にも理解できていない。自分の子供をまるで人形遊びのように扱って。ただ世間の評価ばかりを気にしている。きっとああいう人達は子供を者じゃなくて、物としてみているのよ」
 あたしはいつの間にか内ポケットに手を伸ばしていた。指先はもう煙草の箱に触れている。善くない癖だ。そういえば、観察者はシャープペンシルをくるくる回せば落ち着くと言っていた。あたしはそれに疑問を持っていた。シャープペンシルを回したところで、煙草よりも精神が安定するとは到底、思えないからである。結局、あたしは誘惑に負け、湯本玲に断りを入れてから、新しい煙草に火を点けた。煙を吐き出すと脳内が活性化され、いろいろと思考出来るようになったような気分になる。あたしは彼女に質問する。
「それならば、貴女の見ている大人を反面教師として、自分自身は絶対にあんな大人にならないという気持ちを持ち続ければいいのではないかしら?」
 あたしの問いに彼女はきょとんとした顔を見せた。大方、予想もしていない事を質問された為に、驚いているのだろう、とあたしは考える。灰を落とさないように注意しながら、煙を吐き出す。紫煙が夕焼けに反射して、輝いていた。その美しい姿からは、何百もの有害物質が含まれている事は想像し難い。
「でも、気持ちを持ち続けていても、いつか忘れてしまうかもしれないよ。私だって今こうしている気持ちを大人になれば忘れてしまって、同じ事をしてしまうかもしれない。そんな将来の私を嫌悪しているの」
 彼女はそう反論した。子供っぽい理屈ではあったが、それなりにわからなくもないのは、あたしもまだ子供だからだろうか。彼女は先ほどの言葉に続けて、意見を述べる。
「もしも、今の気持ちを忘れないで大人になったとするわ。それなら、私の周りに一人ぐらい子供の考えをよく理解し、尊重してくれる人がいてもいいでしょう。でも、いないじゃない。それはどうして? やっぱりその気持ちを忘れてしまったから? それとも、今の私みたいに自分自身を嫌悪して死ぬ事を選んだから?」
 彼女の言葉には熱がこもっていた。時折、身振り手振りを交えながら、それを言う為に、落ちてしまわないかと何度も思った。しかし、彼女は意見の途中で落ちてしまってもさほど後悔はしないだろう。反論ならば数点思いついたが、言わなかった。代わりに、
「あたしはね、大人を知りすぎた人間として、子供を何も知らない人間だと考える事が出来ると思うわ。子供は知らないからって大人に怒られるけれど、その大人は知り過ぎた為に、多方面から縛られてしまっているのよ。ええっと、貴女は群集心理というものを知っているかしら?」
 湯本玲は首を横に振った。あたしは群集心理の説明をしようと、思考する。あたしの口から吐き出された紫煙は風に乗って、彼女の方に流れた。彼女は軽く咳き込み、煙を払う仕草をしたので、慌てて煙草を携帯灰皿に押し入れた。それに気づいた彼女が、
「あれ、まだ吸えたんじゃないの?」
「ああ、もう十分吸ったし、もういいかなと思ったから」
 そう答えると、急に思考がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような感覚に陥った。咄嗟に頭の中で考えていた事を整理しようとするが、思うようにいかない。煙草をやめた瞬間、これだ。あたしは、これではニコチン中毒ではないかと思い始めた。せめて、群集心理の説明だけは、とあたしは必死になって頭の中を整理してゆく。
「群集心理っていうのは普段は自分の考えを持って行動できる人が、群集の中に置かれると、他人の行動に引きづられてしまう心理状況の事をいうわ。簡単な例を挙げると、流行ものよ。例えばあたし達のクラスで考えると、最初に四十人の内の三人がまだ有名じゃないアーティストを好きになったとするわ。その三人はそのアーティストのCDを友達の数名に貸すとするわ。その友達はそれを聴いてよいと思う。最初はそんな感じよ。これで四十人中、六人になった。六人はさらにそれをクラスの人達に薦める。それで四分の一ぐらいになったあたりからかしら。聴いてもいないのにそれが好きだという人が現れる。または、それが好きじゃないのに好きだという人が現れる。次第にクラス全員が好きになるんだけれども、実際熱狂的なのは最初の六人ぐらいで、後はその六人に騙されて、好き嫌いの判断が出来なくなっているのよ」
「それが、どう作用して大人はああなっちゃうの?」彼女が先ほどよりも、やや強い口調で言う。
「子供を人形のように扱うのは、それが世間の風潮だからじゃないのかしら。別に人形のように扱う気はないと理性で思っていても、群集心理が働いてしまう。だからこれは仕方ないのよ」
「仕方ない?」
 彼女の語尾が一層強くなったのは、疑問文だからだけではないだろう。彼女は声に出していないものの、何度も、仕方ない、を反芻している事がわかる。あたしは彼女を追い詰めるように続ける。
「そう、仕方ないの。あたし達は所詮、ああいう大人になるのよ。今の気持ちなんか忘れて、社会の風潮に流されて、きっと子供にも同じ事を言われるんだわ。子供の事を理解してない。人形のように扱うんだわ」
 あからさまに衝撃を受けた事のわかる反応を彼女は見せた。半ば放心状態で肩を落とす。あたしは、後、一押しすれば彼女はすぐに飛び降りるだろう、と予測を立てた。それでなくとも聡明な彼女が悩み抜いた事なのだ。あたしの言葉など、すでに彼女自身の考えを再確認しているようなものだろう。
「大人って理不尽よね。子供は外で遊びなさいと言いつつ、自然を破壊していくんだから。自分達で決断しろと言っても、大人はただあたし達にこれをやれ、あれをやれと押し付けて。あたし達が自分自身で決断しても、それを否定する。そんな大人にはなりたくないよね。でも、貴女は少しずつ大人になっていっているのよ。それが嫌なのよね?」
 橙色に染められているカーテンが風によって、まるで踊るかのように舞う。それは彼女の髪の毛も、あたしの髪の毛もだ。段々と濃くなっていく橙色は幻想的だ。グラウンドで部活動の練習をする声。吹奏楽部の演奏。それらは弱々しく聞こえる為、幻想的な風景と相乗し、どこか現実でない所にいるような気がした。こんな素敵な夕刻は生まれて初めてだろう。多分、あたしの記憶に鮮明に記録されるに違いない。
 彼女は左手で乱れた髪の毛を直しながら、小さく頷いた。相手に気づいて欲しくない頷き方だったが、あたしはそれを指摘し、確認する。彼女はしぶしぶ、それに対して肯定の返事を選んだ。「無理もないわ」と、あたしは話を再開する。
「統計的に言うと、女の子は男の子よりも大人になるのが早いと言われているわ。具体的な理由は忘れてしまったけれど、あたしが考えるに女の子は世間の目を気にするのが早く、なおかつ、肉体的に男の子よりも、女の子の方が子供から大人になる変化がわかりやすいからではないかしら。あたしが小学校の時の事を思い出すと、男の子よりも女の子の方が先に異性を嫌がった気がするわ。それは自分の体が異性に対してどれだけの価値があるかを悟ったからじゃないの?」
 あたしは作り笑いだが、笑みを浮かべた。最後の洒落には彼女も笑ってくれると思ったからだ。しかし、彼女は眉一つ動かさず、あたしを見続けていた。観察者の冷笑よりはよい反応だろう。あたしの作り笑いはいつの間にか、苦笑いへと変わっていた。それを浮かべつつも、話を続ける。
「まあ、世間の目を気にするのはそういうことよ。次に肉体的な変化。これは明らかに男の子よりも顕著ね。男の子なんてただ、身長が大きくなるだけじゃない。女の子は違うでしょう。胸だって大きくなるし、初潮だってあるし、男の子よりも大人になっているって自覚する回数が多いのよね。でも、貴女はその度に自分は大人になっていく事を自覚して自己嫌悪に陥っているのよね」
 彼女は肯定する。あたしはもしや、彼女は問題をすり替えているのではないかと考えた。大人になる過程に不安を覚えているのであって、大人が嫌いなのはそれを誤魔化す言い訳なのではないだろうか。もしかすると、それもあるかもしれないと思ったが、指摘するのは止めた。あまりに不確定な仮説であるからだ。不確定な仮説をむやみに彼女に与えれば、どういう反応を示すか予想が立て難いのだ。
「ルコちゃんは大人になりたいの?」
「あたし?」確認すると彼女は頷いた。微かに上目遣いの彼女はこちらを見ている。その仕種から彼女は同意を求めているのは容易に予想がついていた。それから考え出される結末への行動もだ。「あたしは大人になりたいと思うわよ」
「どうして?」
「あたしはさっき、子供を何も知らない人間と言ったわ。そして大人を知りすぎた人間とも。あたしが大人になりたいと思うのは、何も知らないといつの間にか自分が致命的な立場にいるかもしれない事に気づかないから。知っていれば事前にそうなる事のないよう対処できるでしょ。人間は良くも悪くも特殊な例を除き、個人の意思よりも、集団の意思が尊重されるわ。いわゆる集団の考えに反した事をすると罰せられる。それが合法であろうが、非合法であろうがよ。学校なんかよい例じゃない。集団に刃向えば孤立が起こる。過半数が嫌いと思えば、その子は
疎外される。多分、学校で順応出来ない子は社会でも順応出来ないわよ。だって学校こそが擬似社会なんだから。これを社会に置き換えようかしら。大多数と同意見を持つものが大人で、刃向う物が子供なのよ。大人は、少数派を疎外する為にピーターパン症候群やシンデレラコンプレックス症候群など、大人になれない子供すらを病気扱いする。まあ、症候群患者にも原因はあるのだけれど。さらに、今の大人は子供を自分より劣っていると見ているけれど、これは違う。本当はお互いに認め合う関係が一番よいのよ。時々、諦めるという方便を使うけれど、この言葉の裏側には、自分より劣っているのだから仕方ないという意味がこめられているの。
 話が逸れたけれど、あたしは疎外されたくないから大人になりたいの。例え、大人達はおかしいと思っていてもあえてそれを言わないの。初めに言ったけれど、特殊な例を除いて個人の意見は集団に対して無力なのよ。
 さて、貴女はどうかしら? この擬似社会でどういった扱いを受けているかしら? 比較的良好な扱いを受けているわね。半年間、あたしは貴女を観察していたけれど、あまり自分の主張を通すタイプではないわね。付和雷同、とは言わないけれど、表面の意見は他人に任せてしまうタイプ。今のような主張は表に出したくないのね。それから考えると、酷かもしれないけれど、貴女は一番、群集心理にはまりやすい人間よ。つまり、大人になった場合、貴女が嫌がる大人になる可能性が高いのよ」
 彼女は絶句する。口がだらしなく開いたまま、固まっている。よほど、精神的打撃が激しかったのだろうか。無理もない。自分自身が考えた結論であれば、独りよがりだと紛らわす事が出来るが、他人からまったく同じ結論を聞かされれば、誤魔化す事は出来ない。
 だけどこれは、彼女が最初からわかっていた結論なのだ。
「私は……私はそうならない為にどうすればいいの?」
 彼女の声は震えている。先ほどの怒りからの震えではない。湿り気を含んだその声からは、彼女が泣いている事がわかる。だが、彼女は俯いている為に、それを確認する事は出来ない。彼女を泣かせたのはあたしの言動からだろうが、あたし自身はそれに対してなんの悪気も感じていなかった。相手の感情に左右されるほど、自分は感傷的な人間ではない事ぐらい、知っている。
「そうね、選ぶ道は限られているわ。何らかの抵抗をするか、それに服従するか。それか、貴女が考えたように死を選ぶか」
 教室の空気に緊張が絡みつく。そのせいか、粘性を帯びた空気があたしの肺に送り込まれた。無性に煙草が欲しくなった。あたしの人差し指は机を軽くリズミカルに叩く。
「ねえルコちゃん」彼女は俯いていた顔を上げた。夕焼けが目尻に残っている涙を彩った。まるで内に光が輝いているようだった。「最初に煙草の事を言ったわよね」
 あたしは頷く。彼女が瞬きをすると、目尻にあった涙がすうっと頬を流れた。
「もしかしてルコちゃんは、未成年なのに煙草を吸う事で大人達に抵抗しているの?」
 その考えはあたしの心を的確には捉えていない。だが、発言からはそういう見方も出来る。あたしはあえて嘘を吐き、肯定を選んだ。だが、彼女の反応は乏しく、最後の一押しが必要だと判断した。あたしはわざとらしくため息を吐く。
「ねえ、あたしはどうして大人を知りすぎた人間だと言ったか、覚えているかしら? それは何故か。あたしは大人というのは多方面から縛られているからと考えたわ。それは経験であったりするんだけれどもここで一つ例を挙げようかしら。
 例えば目の前で自分の友人が苦しんでいたとするわ。あたし達子供はそれを助けようとするわ。何かしらの力になれる事を信じて、精一杯の努力をして干渉するわ。それはあたし達は人間の本能で苦しいんでいる人の姿なんて見たいと思うだからでしょう?
 だけど、大人は違うのよ。昔の経験やなにやらを持ち出して、人をどうやって説得しても人を変える事は出来ない。ただ、あたし達に出来る事は、人の幸福を願う事みたいな干渉しない方がいいとか、人間は究極の意味で孤独なんだとか。あたし達から見れば馬鹿げているじゃない。どうして目の前で苦しんでいる人を助けてあげようと、よい方に変えてあげようとしないの?
 けれど、大人はそういうあたし達をこういう言葉で批判するわ。偽善。あたしが最も嫌う言葉だわ。おかしいでしょ? どうしてあたし達が精一杯、救おうとしているのにそれを偽善という言葉で批判するの。まったく」
 あたしは彼女の瞳を見る。彼女もあたしに見つめられている事に気づき、緊張の色が顔に見えた。あたしは内ポケットから煙草の箱ごと取り出して、一本取り出す。軽くため息をついてから一言、補足した。
「本当に哀れだと思わないかしら」
 あたしは煙草に火を点ける。軽く興奮状態にあったので、煙草を吸った瞬間のすうっとそれが冷えていくような感覚が心地よかった。
「ルコちゃん、私にも一本くれないかしら」
 あたしは彼女に微笑みかけ、箱から少しだけ出し、彼女の方に向けた。彼女がそれを取ったのを確認すると、あたしは制服スカートのポケットからライターを手渡した。彼女はぷらぷら揺らしていた足を床につけた。右手で煙草を持ち、左手でライターを持っている。いろんな角度から煙草を見て、さらに時々あたしも見ている事から、どうやって持てばいいのかわからないような様子だった。彼女はそれでもぎこちない手つきで煙草に火を点ける。動作の一つ一つがあたしをひやひやさせるようなものばかりだった。それでも煙草に火が点き、彼女は何とかくわえる。すると途端に咳き込み始めた。あたしはそれにくすりと笑ってしまった。彼女は、
「やっぱり、子供の私には無理なのかな?」
 と言った。あたしは「そうかもね」と言う。
 彼女はあたしに吸いかけの煙草を差し出した。まだ十分吸えるのだが、もういいという意思表示だろうと捉え、携帯灰皿に押し込んだ。彼女はもう窓枠に座ったりはしてないが、ちらちらと窓の外を確認していた。あたしはその仕草を黙っていていたが、彼女の視線からどうにも気づいていないようなので教えてあげた。
「ねえ、ここは三階だけど、ここから飛び降りたって確実に死ぬとは限らないのよ。正確に言えば、この学校の屋上から飛び降りたとしても、全身打撲で痛い思いをするだけかもしれないわ。ましてや三階なら屋上よりもその可能性が高いの。じゃあ、確実に自殺する為にはどうするればいいか? 答えは簡単よ。窓のすぐ下は雑草がぼうぼうとしているけれど、少し奥はコンクリートじゃない。あそこに頭を打ち付ければ死ねるわ。コンクリートの場所まで飛ぶにはそれなりの勢いが必要よ。躊躇うと痛い思いをするだけだわ」
「本当に?」
 あたしは頷いた。彼女は身を乗り出して、窓の外を凝視していた。
「貴女、遺書は書いた? 自殺とちゃんと証明出来るものはある?」
 彼女はこちらを向き、どうして? という表情を薄っすらと顔に浮かべながら、頷いた。もしも、窓から飛び降りる姿を誰かが見かけ、この教室に来る際、あたしを見てしまったら、疑いをかけられる可能性がある。それでなくとも重要参考人として呼ばれるかもしれない。それでなくとも、自殺を唆す事は罪なのだ。だから、帰りは誰にも見つからず出て行かなくてはならないと思った。
「ねえ、ルコちゃん、最後に一ついい?」
 あたしは頷く。にっこりと彼女は笑顔を見せて、
「あなたの言っていた観察者って女の子?」
 あたしがその根拠を聞くと、「だってルコちゃん、観察者の代名詞に彼女を使っていたんだもん」と言った。あたしはそれを無意識の内に言っていたので、気づかなかった。
「それでルコちゃん、その観察者って子は誰なの?」
「須藤、サキとかいう頭の狂っている人よ」
 彼女はぼうっと視線を宙で泳がせた。きっと頭の中で須藤サキの事を思い出そうとしているのだろう。時折、感嘆の声を上げていた。それが終わると彼女は伸びをした。最初に話していた時よりも、些か何かから解放されたような表情に変わっていた。
 彼女はあたしに向かってよく通る声で言った。よく聞くとそれはとても綺麗なソプラノだった。
「ルコちゃん、ありがと。なんだか今まで鬱々としていたけれど、晴々としたわ。きっとルコちゃんと最後に話せたからよ。それじゃあ、さよなら」
 そう、彼女が言うと、あたしの反応も待たずに窓枠に足を引っ掛け、次の瞬間、思いっきり跳躍した。空中に浮いた彼女の体は全身を広げている為に、全身に夕焼けを浴びていた。朱に染められた彼女の体は、さながら天使が神の祝福を受けているようにも見えた。幾多も空から降る光柱。風が体の服をはためかせ、髪を靡かせる。あたしはこれ以上に美しい光景を見た事がなかった。コマ送りのように徐々に進む世界。あたしは思わず呟く。
「さよなら、天使エンジェル
 やがて、彼女の体も下へ下へと落ちてゆく。あたしは紫煙を吐くと目を閉じた。網膜にはまだ鮮明に、天使の姿が見える。天使の帰りに神は盛大な祝福と歓迎をしているようだった。この時だけ、神の存在を信じる事が出来た。
 あたしは、その姿が見えなくなるまで、目を閉じ続けていた。


あとがき

Rhapsody In Blue