Rhapsody In Blue
著者 夏目 陽
 
『風鈴・秋・運動会・屋上・食欲・雨音・青・眠り・水』の御題で小説を書けと言われた。実は何個か選んで書くらしいのだが、私は雑な性格なのでメモしていなかった。締め切りは九月末だそうだ。今は八月末だから後一ヶ月あるわけだ。しかし、その時期にはちょうど、前期末考査があるので執筆が出来ない。だから今のうち書いておこうという魂胆だ。
 そう思いながら、机に向かいパソコンを起動させたわけだ。だが、紙2001を起動させたあたりからどうしても話が浮かばない。よくこういう事があったので慣れっこなのだが、締め切りが近いとなるとさすがに焦ってしまう。そんな長い話は書きたくない。今は他の中篇のあった。10枚程度と心の中に決めていた。だが、最近の自分自身の作品傾向を見ると100枚、200枚、100枚と格段に長くなっている。
 ある意味で物語を書けるようになったと言えるかもしれないが、10枚程度の、悪く言えば一発ネタのようなものは中々浮かばない。どうしても付属の設定を考えてしまい、そこから話が膨らんでしまうのだ。それで中篇も困っている。締め切りが九月なのにまだまだ書き足せる部分、書き残した部分が出てくるのだ。しかし、それ全部を書いてしまえば確実に250枚という枚数制限に引っ掛かってしまう。
 何分かぼうっと話の概略を考えて見たが何もいいものは浮かばない。私は本棚を目で追うことにした。まず、目に付いたのが恩田陸氏『ネバーランド』。今日買ってきたばかりで、まだ読んでいない。恩田陸氏は『三月は深き紅の淵を』を読んでからすっかりファンになってしまった。次に目に付いたのは乙一氏『暗黒童話』。真っ黒な中に白い文字で『暗黒童話』と書かれた背表紙は目を奪われてしまう。隣にあるのが本多孝好氏の『MISSING』。これも楽しく読ませて頂いた。『祈灯』や『瑠璃』を読んだ後のきりりと心が軋むような読後感が好きなのだ。そういう意味では桜庭一樹氏の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』もそうだった。こうして見てみるとやはり無作為に読んでいるつもりでも、傾向が偏ってしまう。前まではライトノベル全般が読書対象だったが、乙一氏出会った事から少しずつ一般文芸にも手を出し始めた。今ではすっかり一般文芸の、特にミステリのジャンルの虜である。これからだって読みたい本はある。出会って間もない恩田陸氏は作品の幅が広い方だから、きっと楽しく読ませてくれるだろう。法月綸太郎氏、有栖川有栖氏の本格ミステリ系列も読んでみたい。宮部みゆき氏、赤川次郎氏もだ。
 しばらくそうやっていたらだいぶ時間が経っていた。私は冷蔵庫の中から冷えた缶コーヒーを取り出す。安い時に買いだめしておいたものだ。プルトップを開ける音が部屋に響いた。私はこんな一瞬が好きなのだ。口をつけると冷えた金属が私の唇についた。甘く、それでいてほろ苦いコーヒーが私の喉を潤してくれる。この味は青春の恋の味なんだろうなあと思った。
 私はもう一度、出された御題を見直す。『風鈴・秋・運動会・屋上・食欲・雨音・青・眠り・水』。似通ったものをグループ別に分けてみた。『秋・運動会・食欲・眠り』これらは秋から連想できそうなものだ。残りが『風鈴・屋上・雨音・水』なのだが、とりあえず『雨音・水』は纏めてみよう。残ったのは『風鈴・屋上』である。これらは小道具や場所として使えそうだ。
『屋上』という御題で連想したのが本多孝好氏の『FINE DAYS』である。私は本棚からそれを引っ張り出してくる。そういえば本多孝好氏との出会いはこの本だった。表紙に一目惚れだったのだが、内容にも同じ事をしてしまった。以降単行本をもう一冊。文庫を二冊買ってしまい完全な本多孝好氏中毒になってしまったわけだ。ぱらぱらと頁をめくる。時々、小説とは文字の羅列ではないと思う事がある。紙の感触、表紙の絵、さらには行間でさえ、一つの物語を作る為に必要ではないかと考える事がある。私はすぐに目的の頁を見つける事が出来た。
『校庭から聞こえてきているはずの生徒たちの笑い声や歓声が、はるか遠くの世界から聞こえてくるように思えた。
「何だか」彼女がぽつりと言った。
「無人島みたいですね」』
 とりわけここの部分が私の脳裏に焼きついている。私自身が学生だからだろうか、リアルにその情景があたかも失われた記憶のような温かさに包まれながら再生されるのだ。そして、ここでも心がきりりと軋むような読後感を感じた。屋上。僕らだけの秘密基地。そんな構想が私の中で生まれる。
 そういえば、恩田陸氏の小説『三月は深き紅の淵を』にこんな文章があった。
『うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない?』
 これを読んだ時、思わず私は納得してしまった。私もよくそういう事があるのだ。読み進めていくうちにひっそりと片隅で別の物語が作られていく。それは知らぬ間に鮮明な映像となって私の創作の原動力となる。この傾向は特に一目惚れをした時に多かった。私の作品の舞台は決まった。屋上。僕らだけの秘密基地だ。
 次に風鈴。風鈴と聞いてすぐ浮かぶ小説はなかった。元々本は読まないような人物だったので、つい最近までは『今年の芥川賞と直木賞って誰が取ったの?』レベルの話にすらついていけなかった。仕方ないので自分自身の想像力を使った。風鈴と言えばあの音だろうか。
 
 ちりんちりん。何か郷愁を感じさせるような。
 
 ちりんちりん。まるでその音が鳴る度に過去に戻ってゆくような。
 
 ちりんちりん。少しずつ僕たちは遠く過ぎ去った青春を思い出す。
 
 僕らだけの秘密基地。もう二度と戻らぬ青春物語。こうやって、想像する度に少しずつ物語が生まれ始めた。
『雨音・水』というお題は厄介だ。舞台が屋上ならば、当然屋根はない。雨と言う共通項でくくってしまえば、舞台が使えなくなる可能性があるのだ。もちろん、雨の中で何かをやるという手もあるだろう。雨の日、ずぶ濡れになりながら僕たちは屋上に佇む。これを冒頭に持ってきてはどうだろうか。どうして雨の中屋上で佇んでいるんだろうと読者に思わせてしまえばこちらのものだ。
 小説というのは読者との会話である。作者は常に読者にこういう状況ですと言っているのだ。読者はそれを受けて、疑問や先入観を持つ。それが次の頁へと進ませるテクニックである。その読者の持った憶測があさはかな先入観にすぎなかった事が明かされているごとにさらに先へ進む手をやめなくなる。私の最近脱稿した中篇もその手を追及した、いわゆるミステリと言われるジャンルのものだった。
『秋・運動会・食欲・眠り』これらは秋を連想させるようなものだった。しかし、それが厄介だった。それでは先に考えた風鈴の使い方に困ってしまう。風鈴は夏の季語として使われる事が多い。私は『風鈴』という言葉を御題に考えた人物の心の中を察した。きっとこれを狙っていたのではないか? クイーンばりの推理を考えてみたがあまりの陳腐さに、同じもの書きであったという事を理解したくなかった。クイーンが月ならば、私はこの世に存在してはいけない事になってしまう。
 小説が煮詰まった時考えるのだが、この状態からもし本多孝好氏だったらどう書くか? 乙一氏だったらどう書くか? 恩田陸氏はどう書くか? 法月綸太郎氏ならどう書くか? という事を考える。さすがにお気に入りの作家になってくると多数の作品を読んでくる。その間に文章の癖や言い回しのリズムなどを知らず知らずのうちに記憶している。その無意識の時の記憶を引っ張り出し、照らし合せるのだ。『風鈴』というものをどう使うか。本多孝好氏ならきっと『さらっと風景に盛り込む』のではないか。そして、後になって季節外れなのにそれがあった、と主人公が言い出すのだ。乙一氏ならばどうだろう。『風鈴が鳴る度に現れる幽霊』のような話を書くのではないか。こう考えてしまうのは私が乙一氏の中では『しあわせは子猫のかたち』が一番好きだからだ。きっと心がきりりと痛むような読後感の小説を書くだろう。恩田陸氏はさきほどの『郷愁、ノスタルジア』を使うのではないかと思われる。まだ一作目ではあるが、そのような雰囲気の言葉が各所で出てくるのだ。法月綸太郎氏ならば、本多孝好氏より大胆にそれを使うだろう。名探偵法月綸太郎がすぐに疑問に気付き、それについて追求する。『ミステリの鍵』として使うのではないか? 法月綸太郎氏らしい本格ミステリだろう。
 作品の雰囲気を考え、扱うとしたら本多孝好氏の使い方がベストなような気がする。しかし、乙一氏のような使い方も捨てる事が出来ない。ちょうど二つを混ぜてみよう。主人公の秘密基地、学校屋上。その時現れる不思議な少女。少しずつ二人は惹かれ合うものの、彼女が隠していた正体があった。ほろ苦い青春の恋愛。
 これで揃った。季節は秋、食欲が湧き、運動がしたくなり、程よい温かさが眠りを誘う。舞台は屋上。キーアイテムは風鈴。形を作り、徐々に鮮明になっていく物語。だがまだ足りたい。私はすぐに気付いた。この物語にはタイトルがないのだ。
 ここまで来て私は最後の御題を使っていない事に気付いた。
『青』
 私は青という言葉を変換する。あお、アオ、蒼、ブルー……。そう続けるごとに一つの曲を思い出した。
『ラプソディー・イン・ブルー』
 アメリカの作曲家、ジョージ・ガーシュウィンが作曲したピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品。それまでに例を見ないシリアス・ミュージックとジャズを組み合わせたシンフォニックジャズとして有名な曲。ラプソディーの意味は自由な形式により、民族的または叙事的内容を表現した器楽曲という事。つまり『ラプソディー・イン・ブルー』とは叙事的な青という意味。
『ラプソディー・イン・ブルー』
 心の中で噛めば噛むほど味わいが出てくる響き。昔の人は語感がよいと言われていた。語感のよい言葉は何度も口ずさみたくなると言う。
『ラプソディー・イン・ブルー』
 悩む必要はなかった。これで決定だ。ただカタカナではよい感じが出ない。英語表記を無理にカタカナに直す必要はないのだ。ただ自然のままで。
 私はまだ真っ白な文章ファイルに『Rhapsody in Blue』と打ち込む。その瞬間、物語が溢れ出るように膨らんでいった。青春の恋物語。淡く切ない。胸がきりりと痛むような。少しだけ懐かしいという感情を懐くような。私の拙い筆力でどこまで書けるかわからない。でも、私はこれを書きたいんだ。
 私は一度、深呼吸をすると最初の一文を打ち始めた。


あとがき
 こんばんは。作者の**です。
 さて、新作「Rhapsody In Blue」ですが、私が得意としている方向性とは異なるものであり、不安のようなものがありましたが、こうして脱稿し掲載された事を嬉しく思っております。締め切りが定期考査と重なるなどの理由より、急いだ感じのある作品だったのですが、比較的好印象を持たれている様なのでほっと胸を撫で下ろしている次第です。さてこれ以上作者の無用な介入はいたしません。純粋に「Rhapsody In Blue」の世界を楽しんでいただければ、と心より願っております。それではこれで。読者様にとって素敵な時間であった事を祈るばかりです。
       平成十七年十月一日 作者**のあとがきに代えて

Rhapsody In Blue